「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など多くのヒット曲を出したグループ・サウンズ(GS)…
「ザ・タイガース」が解散したのは1971年の日本武道館コンサートのときです。
当時、人気を博した「ザ・タイガース」が解散した真相はどういったものだったのでしょうか?
1971年の解散から30年後、2011年9月から始まった沢田研二さんのライブツアーが開催され、チケットは予約開始日にほぼ完売するなど熱狂的な盛り上がりを見せました。
観客のほとんどは団塊の世代が中心でしたが、「ザ・タイガース」の復活に誰もが興奮…
会場では年齢を忘れたかのような黄色い声が飛びかっていました。
このツアーには岸部一徳さん、森本太郎さん、瞳みのるさんが参加しました。
加橋かつみさん、岸部四郎さんが加われば、まさに「ザ・タイガース」そのものでしたが、瞳さんが加わった意義は大きいものでした。
なぜなら解散以来、瞳さんは他のメンバーと接触を絶ってきたからです。
タイガースが解散したのは1971年1月24日…
日本人初の日本武道館単独公演がラストステージとなりました。
当時、グループ・サウンズ(GS)ブームに陰りが見え始めていましたが、すぐに解散しなければならないほど人気が落ちていたわけではありませんでした。
理由は当時、スター性は抜群だった沢田研二さんを早くソロデビューさせたい周囲の意向が強く働いたといわれています。
こうした状況に嫌気がさして、いち早く行動を起こしたのが加橋かつみさんでした。
1969年3月に失踪し、グループを脱退してしまいます。
辞めたいという加橋さんを周囲は引き留めにかかりましたが説得できず、失踪という形になったのです。
こんな状況を見ていた瞳さんもまた辞めることを考えるようになりました。
加橋さんの代わりに岸部一徳さんの弟・岸部四郎さんが加わりましたが、瞳さんの気持ちすさむばかり…
メンバーに「一緒に京都に帰ろう」と話したそうです。
当時のグループ・サウンズ(GS)は事務所が集めてきたメンバーで構成されているケースがほとんどでしたが、「ザ・タイガース」は京都の仲間で結成されたグループでした。
もしできるなら、一から出直して、誰の考え方にも左右されず、好きな音楽をやりたいというのが瞳さんの考えだったのです。
しかし、その願いは叶いませんでした。
解散の日を迎えた瞳さんは打ち上げが終わると、そのまま一人で京都に帰ったのです。
その後、デビュー前に通っていた定時制高校に戻り、翌1972年に慶応大学文学部に合格…
そのまま大学院に進み、慶応高校で漢文の教師として教壇に立つことになります。
その間、メンバーと没交渉だったのですが、もっとも誤解されていたのは沢田さんでした。
ソロになりたいために、他のメンバーを捨てたと瞳さんは思っていたのです。
しかし、沢田さんは仲間に対する気持ちが人一倍強く、ソロになることに最後まで抵抗していました。
誤解を晴らしたのは沢田さんが歌う「Long Good-by」という曲でした。
森本さんが作曲、岸部一徳さんが1番と2番、沢田さんが3番の詞を書きました。
この曲は「一緒に帰ろう」と言った瞳さんへの返事になっているのです。
「永遠の今が続きならば一度酒でも飲まないか」という沢田さんの言葉を聞いて長年のわだかまりが氷解したのでした。
その後2013年12月には、加橋さん、岸辺四郎さんも加わったオリジナルメンバーでの復活ライブが44年ぶりに開催され話題を呼びました。
12月3日に日本武道館にて44年振りの復活ライブが開催され、最終日となった12月27日の東京ドーム公演では、病を押して岸部四郎さんがゲストとして登場…
結成以来、初めて6人のメンバーが公の場で一堂に会することとなったのです。
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