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堀江淳の「死亡説」はこうして生まれた?!




 

「水割りをくださ~い」と言えば、1981年の「メモリーグラス」。
この曲がデビュー曲ともなったシンガーソングライター「堀江淳」さん。

「メモリーグラス」は、透明感あふれる中性的な声で70万枚のヒットとなったのですが、1983年の交通事故をきっかけに、堀江さんの死亡説が飛び交うようになりました。

名前:堀江淳(ほりえじゅん)
生年月日:1960年10月19日(58歳)
職業:シンガーソングライター
所属:株式会社ブライト
レーベル:Fortune Entertainment
出身:北海道苫小牧市
学歴:苫小牧南高等学校



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1983年1月29日未明、当時22歳の堀江淳さんは原付きバイクで帰宅途中、自宅近くの路上で運転を誤ってコンクリート製の電柱に激突しました。

左足骨折、全治2ヵ月の重傷で堀江さんはそのまま40日間の入院を余儀なくされたのです。
病院のベッドでは同じ事務所所属の中森明菜さんの曲を書くなどの活動を行っていました。

当時、堀江さんはコンサート中心の活動でテレビ出演は少なかったのです。
事故の影響は歌手活動にはそれほど大きくなく、1983年暮れには第一線から身を引いて、作詞・作曲などの地道な活動がメインとなっていました。

しかし、世間は人気者の去就にこだわります。
露出が減ったことと事故報道を無理やり結びつけるようになり、死亡説が流れるようになりました。

中には事故を誇張して、

トラックにひかれて「水割りをください」と訴えながら亡くなった。

というものから、

舞台上で「メモリーグラス」を熱唱後に座ったままで亡くなった。

といったものまで、様々な噂が流れたのです。

死亡説を打ち消すためにラジオに出演した際には「ニセモノが出演」という噂が流れたり、挙句は堀江さんが行ったこともないタイでの目撃情報から、東南アジアへの移住説まで出たのです。

堀江さんは後に、

(中森明菜さんや増田恵子さんへの楽曲提供など)作家活動をしていたんですけどね。まあ気にしなかったんですけど、正直言えば、「いつか見ていろ」という気持ちがあったかもしれませんね。

と心境を語っていました。

同時期、コンサートやライブの最初では「まだ生きてますよ~」と噂をネタにしたトークを行い、ファンの笑いを取ることもあったのです。
死亡説の流れる中でのコンサートだけに、「生きてますよコンサート」とも呼ばれました。

そうして1984年11月12日には結婚を発表。
健在ぶりもアピールしました。

しかしその後、翌1985年から堀江さんはしばらく活動を休止します。
デビュー当時、自分自身も事務所もレコード会社も計画性のないままに始まって気がついたら売れていたという状態だったと言います。

そのためレコード会社との契約を更新せず打ち切り。
しかし、新しいレコード会社が決まりませんでした。

10年間の充電期間中には曲を書く活動を続けて、活動休止中も「メモリーグラス」のカラオケ印税が年間200方円振り込まれたと言います。

1994年4月、堀江さんは「もう一度、新人になったつもりで頑張ります!」と再デビューを果たしました。

また、女性ボーカルとユニット「spoon」を組むなど活動の幅を広げ、現在はソロに戻ってライブや楽曲制作などをしています。

最近では堀江さんの同郷・北海道苫小牧市育ちで、1981年に「ペガサスの朝」がヒットしたミュージシャン・五十嵐浩晃さんと2人で定期的にジョイントライブを開催しています。




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