女優の「樫山文枝」さん(当時33歳)と、俳優の「綿引勝彦」さん(当時29歳)が結婚したのは、今から40年以上も前の1974年12月29日のことでした。
おしどり夫婦としても知られる樫山さんと綿引さんですが、2人の馴れ初めや結婚式などはどのようなものだったのでしょうか。
名前:樫山文枝(かしやまふみえ)
本名:綿引文枝
生年月日:1941年8月13日(77歳)
職業:女優
所属:劇団民藝
出身:東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺(現:東京都武蔵野市吉祥寺)
学歴:東京文化学園高等学校卒業
名前:綿引勝彦(わたびきかつひこ)
旧芸名:綿引洪
生年月日:1945年11月23日(73歳)
職業:俳優
所属:劇団綿帽子
出身:東京都
学歴:日本大学藝術学部(中退)
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2人の出会いは1970年の舞台「アンネの日記」(日生劇場)で、アンネ・フランク役で主演女優になったのが樫山文枝さん、その時に裏方としてこの公演に参加していた劇団民藝の研究生の一人が綿引勝彦(当時は綿引洪)さんだったのです。
とは言え、すぐに2人の交際が始まったわけではありませんでした。
芸歴が違いすぎるから、身近な感じはしなかったですね。一般の人がスターを見るような目で見ていただけですよ。
と語る綿引さんの言葉通り、当時の2人には大きな差があったのです。
まず、樫山さんは綿引さんよりも4つ年上で、綿引さんが劇団民藝の研究生になったのは、日本大学藝術学部を3年で中退してからさらに3年のブランクがあったため、役者としてのキャリアにはより大きな開きがあったのです。
2人の交際が始まったのは1972年頃からでした。
当時、樫山さんの家が吉祥寺にあり、綿引さんの家が武蔵境と同じ中央線沿いにあったため、仲間同士で集まってワイワイ騒いだ後は、綿引さんが樫山さんの家まで送って行くのが決まりになっていたのです。
この頃から綿引さんのことを意識し始めたという樫山さん、
彼は黙っていると私より年上みたいに思えるし、話してみるとやっぱり後輩だったと安心してみたり、混乱しちゃうんですよ。だけど言ってみれば足もとがしっかりしてるのね。それで意識するようになったのかしら。
と感じていました。
しかし、人前はもちろん、2人の時もお互いの呼び方は「樫山さん」と「綿引くん」…
この関係が少しずつ変化して来たのが1973年頃からです。
この頃になると、2人はよく喧嘩をするようになっていました。
それだけ2人の距離感がなくなっていたのです。
樫山さんによると喧嘩の原因は、このようなことでした。
私はその頃、おはなはん(1966年4月から1年間放送されたNHKの連続テレビ小説)イメージから何とか脱皮しようとして脱皮し切れずに、行き詰まってていたんです。その中で、私のダメなところをズケズケと指摘してくれたのが彼だったんです。公演のときも、私が知らないうちに見に来てくれていて、必ず他の人とは違うポイントを見つけてくれる。口惜しいけどそれが核心をついているのね。その頃にはもう、仕事以外の交際中に私が先輩意識を出すと、親でもそこまでは言ってくれないような厳しさで、ピシャリと言われるようになっていました。私も大人しく言われっぱなしにはなってないから、そういうことが全部喧嘩の種にもなりましたけど、それが彼の愛情の表現だと思うと、やっぱり嬉しかったわ。
気の強い2人だからこそ、喧嘩も熾烈を極めたと言いますが、喧嘩が休戦に入った時には、綿引さんが冗談っぽく「樫山さん、僕と結婚してくれるといいんですがね」という言い方をしていました。
冗談めかしてはいても、気持ちが真剣であることは樫山さんも感じており、結婚についても真面目に考えるようになっていったのです。
約1年間、樫山さんは真剣に考えた末、綿引さんのプロポーズを受ける決心をしました。
時期的には1974年の9月末から10月にかけてで、そこから2人の関係を知って、周囲が驚かされることになります。
最初は樫山さんの父親で、当時は早稲田大学の教授でもあった哲学研究者の樫山欽四郎(かしやまきんしろう)さんでした。
10月末に綿引さんが結納を持って、吉祥寺の樫山家にやって来たのです。
寝耳に水の話でしたが、断る理由もありませんでした。
11月末に2人は名古屋の名鉄ホールで、舞台「赤ひげ」を公演中の宇野重吉(うのじゅうきち)さんに会いに行きます。
結婚の報告に加えて、仲人をお願いするためでした。
夕方、車で東京を出発し、東名高速道路を走って名古屋に着いたのが夜の9時頃。
なるべく人のいない所に車を停め、綿引さんをそこに残して、樫山さんが名鉄ホールの楽屋まで宇野さんを迎えに行きました。
「なんだ、どうしたんだい」と、宇野さんも、突然現れた樫山さんの顔を見て驚きます。
樫山さんが「実は結婚したいんです」と言うと、「フーン、相手は誰だい」と宇野さん。
「すぐそこまで来てるんですけど、ちょっとご足労願えませんか?」と樫山さんが待ち合わせの場所に誘い、車に乗っていた綿引さんの顔を見て、「なんだ、お前か」とニヤリと笑いました。
綿引さんは宇野さんにとって劇団員であり、1973年のテレビドラマ「銀座わが町」の共演者でもあったからです。
「お前なら大丈夫だろう」と宇野さんは祝福してくれました。
仲人のことも快く引き受けてくれたのです。
挙式の日どりを1974年に12月29日に決めたのは、宇野さんを含めた3人の空いている日が、この日しかなかったからでした。
ちょうどマスコミが休みに入っていることも都合が良かったのです。
そうして劇団内部の人間もほとんど知らない極秘結婚が始まりました。
式は、東京都杉並区の東京女大付属礼拝堂で行われ、立会人の宇野さん夫妻以外には、両家の親族が約15~16人という静かな結婚式だったのです。
新居は、2人の実家からほぽ等距離にある武蔵境のアパートを借りました。
樫山さんは1975年1月5日から渋谷の西武劇場で舞台「才能とパトロン」の再演があり、綿引さんも2月18日から6日間、永田町の砂防会館ホールで「謀殺=下山事件」と、それぞれ公演があり、新婚旅行の時間は無かったと言います。
子どもも、とりあえずは欲しくないんです。私たちは、演劇を続ける上でのパートナーでありたいし、それも生易しいパートナーではなく、お互いに吸収し合い、反発し合う、ライバルとしてのパートナーでありたいと思うの。
と語っていた樫山さん。
そんな2人だからこそ、40年以上経った今でもおしどり夫婦として、また名女優・名俳優として活躍されているのでしょう。
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