サイトアイコン GOSSIP-HISTORY

松原桃太郎(元CHA-CHA)…番組収録中に盗塁して骨折したことがある?!




 

1988年にデビューした男性アイドルグループ「CHA-CHA(チャチャ)」。
そのメンバーの一人で、ユニークなキャラクターでも人気があったのが、マッちゃんこと「松原桃太郎」さんでした。

そんな松原さんは過去に、テレビ番組の収録中に全治3ヵ月の骨折をしてことがあったのです。
果たして、その時何が起こったのでしょうか。

名前:松原桃太郎(まつばらももたろう)
本名:松原仁(まつはらひとし)
愛称:マッちゃん、デブちゃん
生年月日:1965年9月2日(53歳)
出身:新潟県新潟市




Sponsored Links
 

1989年の4月からは、自分たちの番組「CHA-CHAワールド」(日本テレビ系)を持つほどの売れっ子になっていた5人組のCHA-CHA。

その中でもユ二ークなキャラクターで人気があったのが、マッちゃんこと松原桃太郎さんでした。

松原さんがユニークなキャラクターであったのは当然と言えば当然で、実は「欽ちゃん劇団」の前身である「欽塾」に所属していたことがあったからなのです。

つまり、ユーモアなキャラクターは師匠ゆずりで、桃太郎という芸名も萩本欽一さんからつけてもらいました。

萩本さんが「本名で不祥事を起こすと実家の両親が泣くから芸名をつけよう」と言い出し、その時、偶然にもスタッフが桃太郎の衣装を持って通り過ぎて行ったことがきっかけで決まったそうです。

さて、そんな松原さんの事故は1989年3月26日、東京ドームで行われた「第3回芸能人オールスター夢の球宴!」(日本テレビ系)での収録時に起きました。

この日CHA-CHAは、プロレスのジャイアント馬場さんのチームと対戦したのですが、1回裏、6番の松原さん(当時23歳)はファーボールで出塁。
ピッチャーのスキを見て、すかさず2塁に盗塁と、ここまでは良かったのです。

ただ、試合会場は東京ドーム。
草野球のようににべースがただ置いてあるのではなく、しっかりと地面に固定してありました。

それを知らなかった松原さんは、盗塁で思いっきり突っ込み、足がベースにぶつかったのです。
さらに、勢いがおさまらずに体も吹き飛ばされてしまいました。

この時のことを松原さんは、このように語っています。

体が飛んだ瞬間、バキッというすごい音がしたんです…

痛さで転げまわるような感じで、抱えられるようにして運ばれたんです。僕が苦痛でうめいているのにメンバーはもちろん、お客さんまでがギャグだと思って大笑いしてた(笑)
それでも運ばれたまま、いくら経っても帰って来ないので、ようやく本当だと思ってくれたようなんです…

病院での診察の結果、松原さんの怪我は右足の骨と関節が折れていて、ギブスをはめて治療しなければならない状態でした。
そのギブスが取れるまでに1ヵ月半、足の機能が完全に回復するまでにさらに1ヵ月半、合わせて全治3ヵ月の怪我となったのです。

一番痛かったのは、プラプラになった骨を元に戻す時。気が遠くなるような激痛で、大声でギャーギャー叫びました…

と、松原さんは悲痛な胸のうちを語りました。

さらに盗塁の時、キャッチャーがパスボールして、到底2塁に投げられる状況ではなかったと聞いて「情けね~無理して走らなくても…」と悔しさを滲(にじ)ませていたのです。

その試合はCHA-CHAチームが快勝しましたが、メンバーからは冗談半分に「マッちゃん(松原さん)がいなかったから勝てたんだ」と言われました。

一方で、松原さんは、

この療養期間中に、他のメンバーに踊りでも教えてやります。ファンの皆さんも、私の軽やかな踊りが見られなくて残念でしょうが、元気になったらたっぷりお見せしますから。

とも宣言していました。
実は松原さんの華麗なステップは当時、ファンの人気の的でもあったのです。

足の怪我以外は、元気な松原さん。
CHA-CHAの活動も休みなど取らずに、松葉杖をついて現場に出ていたのですが、この現場でも皆にいじられていました。

まず松葉杖を隠されるでしょ。次はギブスから出ている足の親指にマニキュアをされる。包帯にはラクガキ。「物を取ってくれ」って頼むと、わざと1メートルほど離して置いて「あとは自分で取れよ」とこうなんです。

と語った松原さん。

メンバーに腫れて紫色になった足を見せると、同情するどころか「それ、汚れているだけなんじゃないの?」と言われたり、中には真剣な顔をして、「足を祈ると、その分、足が短くなるんだってね。そうなると短い脚がますます(笑)」と言われたとか。

そんなメンバー囲まれながらも、CHA-CHAの愛されキャラと活躍した松原さん。
ただ、CHA-CHAが解散した後は、改名したり、コントなどをしていましたが、徐々にメディアから姿を消していきます。

2010年頃から地元の新潟市でカイロプラクターや、ラーメンチェーン店で応援団長と称するスタッフや各地のステージイベントなどに出演。
また、2011年4月から2012年3月までは、新潟放送・BSNラジオのパーソナリティとして出演していました。




Sponsored Links
 



モバイルバージョンを終了