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篠田三郎…嫁・高田章子との馴れ初めから結婚まで

目次




 

テレビドラマ「ウルトラマンタロウ」や「新・部長刑事アーバンポリス24」、映画「金閣寺」や「さくら」に主演していた俳優の「篠田三郎」さん。

そんな篠田さんが嫁の高田章子さんと結婚したのは1975年1月15日のことでした。
果たして、二人の馴れ初めはどのようなものだったのでしょうか。

名前:篠田三郎(しのださぶろう)
本名:大塚晴生(おおつかはるお)
生年月日:1948年12月5日(70歳)
職業:俳優
所属:田上事務所
出身:東京都港区麻布
学歴:日本大学第二高等学校(中退)




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1975年当時、TBSの「華やかな荒野」と「家族あわせ」にレギュラー出演中だった篠田三郎さん(当時26歳)。
この年の4月からは、朝のNHKテレビ小説「水色の時」で、ヒロインの大竹しのぶさんの恋人役を務めることになっていました。

当時の篠田さんはドラマの影響で女性ファンが急増しており、芸能界の常識で言えば、必ずしも良い結婚のタイミングではなかったのです。

けれども篠田さんは結婚に踏み切り、婚約発表会見や派手なパーティーを開くこともなく、慎ましく入籍を済ませていました。
その結婚相手こそ、今の嫁でもある高田章子さん(当時27歳)だったのです。




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篠田三郎…嫁・高田章子との出会い

篠田三郎さんは1966年に大映18期ニューフェイスとして芸能界入りしました。
女優・江波杏子さんの女賭博師シリーズでデビューし、1971年には同期生の関根恵子(現・高橋惠子)さんと、映画「高校生心中・純愛」に共演しましたが、やがて大映が倒産してしまいます。

時代は映画からテレビに移っていました。
しばらくはわき役時代が続きましたが、1971年のクリスマス・イブが運命の日となります。

この日、大映の頃の友人に誘われて、東京・中野区にある小さなスナックで開かれたパーティーに顔を出した篠田さん。
友人と付き合いのあるスナックの経営者は大学生だったのですが、その姉が店を手伝っており、これが後に篠田さんの嫁となる高田章子さんだったのです。

その夜、篠田さんは生まれて初めて、女性に一目惚れ。

第一印象と言えば、彼女の目がすごく綺麗だったんです。友人に紹介されても、ほとんどロがきけなかったのは、完全な一目惚れで緊張していたからでしょう。まさかその彼女と結婚する運命になるなんて、夢にも思いませんでしたが…

と、この日のことを振り返っています。

また、章子さんも篠田さんに対し、

首の長い人、という印象でした。足もとを見たら、先の尖(とが)った靴を履いてるのね。私、そう人が好きじゃなかったし、芸能界にも、こんなセンスの人がいるのかしら、と思いました。今考えると、そのタレントらしくないところに好意を持ったのかもしれません。

と、このような印象を持っていました。

一目惚れで緊張して何も話せなかった篠田さん…
一方で章子さんは余裕がありました。

パーティーも終わりに近づき、章子さんは篠田さんの方を見ると、篠田が友人らと楽しそうにしゃべっていたのです。

会話にはユーモアがあり、意外と話のできる人なのだと章子さんは感じました。
とは言え、この日はこれ以上、何の発展もなかったのです。
これが二人の馴れ初めでもありました。




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篠田三郎…嫁・高田章子と交際

篠田さんはパーティーの後はそのまま二次会に進み、その後は章子さんを紹介してくれた友人のアパートへ行きました。

そこで友人に、「彼女、すごくいい感じの女性だよ。ああいう人と付き合いたいなあ。こんな気持ちになったこと、本当に初めてなんだ」と打ち明けました。

友人も、「本気か?よし、それなら近いうちに、俺から彼女にお前の気持ちを伝えてやる」と答え、篠田さんも「頼むよ、是非…」とお願いしたのです。

それから1週間ほどが経ち、「喜べ!彼女、お前に悪い印象は持ってないぞ。惚れたとは言ってなかったけどね」と報告。
こうして付き合うというところまではいかないまでも、友達と一緒のグループ交際に発展しました。

みんなで映画を見たり、喫茶店へ行ったり…
当時はかなり時間を持て余していたという篠田さん、けれども付き合うきっかけもないままこのような関係が続いたのです。

そのうち、友達も恋人ができたと、だんだん抜けていきました。
気が付けば篠田さんと章子さんだけが残っていたのです。

それからは二人だけの交際になりましたが、篠田さんは自分の気持ちを打ち明けられませんでした。
ところが1972年の暮れになって、章子さんから突然、重大な話を打ち明けられるのです。

実は章子さんの父親は若い頃は音楽家志望でバイオリンを弾いていました。
そして、その夢を今度は娘の章子さんに託したのです。

そのため、章子さんは国立音大を卒業し、バイオリニストで身を立てようと決意したこともあったのですが、それほど生やさしい世界ではありませんでした。
そこでバイオにリストの道を諦め、篠田さんと出会った弟のスナックを手伝うようになっていたのです。

ただ、その弟も大学を卒業して就職先が決まり、お店を閉めることになりました。
さらに、八王子の実家から両親が、「縁談もあるから帰って来るように」と章子さんにいって来たのです。

章子さんはこの話を篠田さんに打ち明け、「私、実家へ帰ろうと思うの」と告げました。
億手の篠田さんも、これには愕然となり、「帰るなんて、ダメだ!僕を信じてくれ、実家へなんか行かないでくれよ」と説得したのです。




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篠田三郎…嫁・高田章子と結婚

こうして章子さんは、篠田さんついて行くことを約束し、二人は正式に付き合うことになりました。
また、その頃になって篠田さんの仕事もようやく芽をふき始めます。

篠田さんは中野区の中野、章子さんは渋谷区の初台のマンションに住んでいましたが、結婚の約束をしてからは、章子さんが篠田さんの部屋へ通って、掃除や洗濯をしてくれるようになりました。

後に篠田さんは章子さんとのことをこのように語っています。

彼女はいつも僕の立場を考えてくれて、決して出しゃばらなかった。会えない時は、必ず僕の方から電話をかけたが、僕が雪の山形へ1カ月もロケでしばられた時は、耐えられなかったのだろう。ある日、突然一人で東京を離れ鶴岡からロケ宿へ電話があって「どうしても会って欲しい」と言うんだ。3時間くらい待たせてからそこへ行き、「なぜ、こんな所まで来るんだ。僕を困らせないでくれ」と追い帰したが、後で胸がうずいた。僕が俳優じゃなかったら、こんな辛い思いはさせないで済むんですからね。

篠田さんは1973年に、TBS「愛よいそげ」に主演しましたが、この仕事が終わり次第、内心では章子さんと結婚式を挙げるつもりでした。
ところが併行して「ウルトラマンタロー」の主演があったので、心ならずも延期となったのです。

それから1973年の「天下堂々」(NHK)が終った時にも決意しましたが、これも「若い先生」(TBS)が続いてチャンスを逸していました。

売出し中の篠田さんに結婚されては困るという周囲の思惑があったのか、どちらにしても篠田さんには時間が無さ過ぎたのです。
その間、章子さんはじっと耐え抜いていました。

篠田さんの人気が上昇するにつれて、人目をいっそう意識しなければなりません。
篠田さんも仲間との付き合いをセーブして、少しでも時間があれば章子さんと会うようにしていました。

そうして「若い先生」が終ったら挙式だと篠田さんも腹をくくったのです。
ところが1974年の暮、またしても「水色の時」(NHK)が入り、ピンチに陥りました。
しかし、この時、篠田さんは覚悟を決めていました。

1975年1月4日に、篠田さんは故郷の栃木へ帰って、親成へも結婚の挨拶を済ませます。
挙式は簡素にしたいと、両親の他は親戚の代表を招くだけにしました。

章子さんの家族もそれに同意して、挙式は1月15日、東京・目黒のアンセルモ教会(カトリック目黒教会)に決めます。
成人の日の当日は冬晴れの上天気、挙式は午前10時半から、厳かに慎ましく行われました。

端役時代に一度だけ結婚式のシーンをやったことがありますが、いざ自分の本番になると、身が引き締まりました。なるべく淡々と、冷静にと思いましたが、署名の時は手が震えて…彼女もすすり泣きしていたようです。式の途中で、参列者が抱いていた赤ちゃんの泣き声がしましたが、僕達はそれが祝福の声に聞えました。本当に僕達に相応しい素晴しい結婚式でした。

と語った篠田さん。

その後は、帝国ホテルで会食し、めったに歌を歌わない新郎・篠田さんが、とっておきの歌「わが青春」を披露し、花嫁となった章子さんも楽しそうにリズムを取っていたのです。

天下晴れて挙式を済ませたので、これからは彼女をどこへでも連れて行けます。当分は子供は作らずに、奥さんサービスですよ。セーブしてた友達付き合いも復活させたい。彼女が僕を亭主関白にさせてくれるので、万事うまく行くでしょう。あいつは結婚したらぽしゃったなんて言われないように、これからも自分のキャラクターを活かして、仕事に打ち込みます。

そのように結婚の抱負を語っていた篠田さん。
その後、二人の間には一男一女が生まれています。




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