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三津五郎…死因のフグ中毒死に勘三郎が弔辞で「バカヤロー」?!

目次




 

若い頃から敵役や老役を得意とし、重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定された「八代目・坂東三津五郎」さん。
そんな三津五郎さんが亡くなったのは、1975年1月16日のことでした。

三津五郎さんの死も去ることながら、世間を驚かせたのは死因がフグ中毒死だったということです。
三津五郎さんが亡くなったことで歌舞伎界に大きな悲しみが訪れる一方、死因のフグ中毒に関して多くの人が議論することになりました。

名前:八代目・坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)
本名:守田俊郎(もりたとしろう)
生年月日:1906年10月19日~1975年1月16日(享年68歳)
職業:俳優、歌舞伎役者
屋号:大和屋
定紋:三ツ大
替紋:花勝見
出身:東京市下谷区二長町(現・東京都台東区)




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「河豚(ふぐ)は食いたし命は惜しし」という言葉があるように、食通が「これほど美味い魚はない」と、舌つづみを打つフグに猛毒があることは、誰もが知っていることでしょう。

その毒はフグの肝臓や卵巣などに含まれるテトロドトキシン(tetrodotoxin)と言われ、青酸カリを遥かにしのぐ毒性を持っていると言います。

中毒を起こすと唇、舌、指先が痺れ、頭痛、腹痛、嘔吐の後に全身マヒになって呼吸困難をきたし、死亡率も高いと言われていました。

近年はフグの毒によって亡くなる人は減って来たものの、いつの時代もフグには猛毒があるということを覚えておかなければなりません。

そんなフグの毒によって急死した最も有名な人物と言えば、「八代目・坂東三津五郎」さんではないでしょうか。
亡くなったのは1975年、その当時でも料理は免許を取った調理師しかできなかったのですが、厚生省(当時)によると、1974年の1年間でフグによる中毒事件は51件発生しており、27人が亡くなっていました。




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三津五郎…死因となったフグ中毒の経緯

1975年1月、八代目・坂東三津五郎さんは、京都南座の正月公演「お吟さま」に出演するため、前年の幕れから京都ロイヤルホテルの9階25号室に泊っていました。

大入りで中日を迎えた1月15日、夜の部を終えてからひいき筋に招待され、木屋町通四条上ルの料理屋「政」でフグ料理を食べることになります。

同席したのは祇園の舞妓さんらを含めて6人。
関西の料亭では食通の客が来ると、肝や白子を出すところが多くあります。

「政」でもフグ調理免許を持つ笠岡忠利さん(経営者・笠岡花さんの息子)が、刺身と一緒にこの珍味を出しました。

京都府のフグ取扱い条例によれば、フグの有毒部分である卵巣、肝臓、胃、腸などを加工陳列してはならないと規制しています。
たとえ客から注文されたとしても、肝を食わせることはご法度でした。

しかし、三津五郎さんを含む3人は出されたフグの肝を食べたのです。
ただ、ここでもし三津五郎さんが1人前しか食べなければ、命拾いしていたかもしれません。

と言うのもこの時、三津五郎さんは「うまい、うまい」と、フグの肝を4人前も食べてしまったからです。
毒にも致死量があり、1人前しか食べていない他の2人には影響は出ませんでした。

こうして、三津五郎さんが京都ロイヤルホテルへ戻ったのが午後11時頃。
その日の朝、東京から楽屋見舞いをかねて京都へ来ていた妻・たね子さん(当時55歳)に、

珍しいフグの肝を食べて来た。まるで身体がふわふわ飛んでいるようだよ。

と、上機嫌で話をしていました。

三津五郎さんはそのまま寝ましたが、16日の午前2時50分頃、「手洗いに行くから…」と言って目を覚まします。
しかし、その時はもう全身に痺れがきて立ち上ることが出来ません。
「水をくれ」と言うので、たね子さんがコップに汲みましたが、それも持てませんでした。

慌てたたね子さんは、すぐフロントに電話。
ホテルの嘱託医・泉谷守医師が呼ばれて診察し、フグ中毒と判明したのです。

そのとき三津五郎さんは、苦しみながら、たね子さんにこう言いました。

お前も一緒にと思ったが、行かなくてよかった…こんなことになったら、大変だった…

三津五郎さんはホテルから救急車で、京都市右京区太奉安井馬場町の泉谷診療所(現・泉谷医院)へ運ばれましたが、すでに手遅れの状態でした。
フグ中毒は食後30分から3時間くらいで始まり、酷い場合には症状があらわれてすぐに亡くなることもあると言います。

こうして三津五郎さんは16日の午前4時40分、妻・たね子さんに看取られて68歳の生涯に幕を閉じたのです。




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三津五郎…フグ中毒死後に家族と再会

遺体は1月16日午後、京都府立医大で解剖にふされ、死因はあらためてフグ中毒死と判明しました。

京都五条署では条例違反で料理屋「政」を10日間の営業停止処分にし、調理人・笠岡忠利さんを業務上過失致死の疑いで取調べを行ったのです。

この知らせ聞いて、東京から駆けつけた、三津五郎さんの長女・守田喜子さん(当時、七代目・坂東蓑助さんの妻)と、次女・池上慶子さん(女優・池上季実子さんの母親)は、

お父さん、なぜ肝なんか食べたの!こんなに早く死ぬなんて…

と、遺体安置所で号泣したのです。

三津五郎さんには3人の娘がいましたが、3人とも1967年に癌(がん)で他界した先妻・シン子さんの子供で、最期を看取った後妻のたね子さんとは茶道の上で知り合い、1968年に再婚していました。

ただ、このたね子さんが梨園のしきたりを守ろうとしない人物で、これが原因で娘夫婦とも不仲になっていたのです。
だからこそ、久しぶりの再会がこのような形となり、娘たちは大きなショックを受けたのでした。

また、次女の娘で現在も女優として活躍している池上季実子(当時16歳)は、偶然にも自分の誕生日が祖父・三津五郎さんの命日と重なってしまったこともあり、

おじいちゃんには、とても可愛がってもらったのに、心の支えを失くしてしまって…

と、声を上げて泣いたのでした。




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三津五郎…フグ中毒死に勘三郎が弔辞で「バカヤロー」?!

最後の舞台となった「お吟さま」で共演していたハ千草薫さん、一の宮あつ子さん、仲谷昇さん、本郷秀雄さん、真木洋子さんらは、突然のこの訃報に大きなショックを受け、

とても信じられません、あんなにお元気だったのに!三津五郎さんの千利休で舞台がもっていたんです。あまりにお気の毒で、なんと言ったらいいか…

とのコメントが出ました。

1月16日深夜、東京・港区元赤坂の自宅へ着いた遺体は、2階の稽古場に作られた祭壇にまつられ、続々と弔問客が詰め掛けました。

一代の名優・三津五郎さんの初舞台は7才の時。
青年時代は近代劇の創始者の一人である小山内薫に師事し、歌舞伎界の反逆児と言われながらも、実験劇を上演したり、関西では實川延若(じつかわえんじゃく)さんや中村扇雀(なかむらせんじゃく)さんらの若手育成にも務めました。

1962年に八代目を襲名、日舞坂東流の家元となり、1965年には重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定にされています。
他にも舞台で芸術院賞や紫授褒章を受けました。

歌舞伎界きっての理論家であり、著書も多く、茶人、食通、書画骨董の造詣も豊かで、枠人美男役者として幅広いファンを持っていた三津五郎さん。

他にも、公益社団法人であるあゆみの箱理事や盲導犬協会理事、日本芸能実演家団体協議会会長など、社会的な肩書も多く持っていました。
そのため、もし歌舞伎界から国会議員を出すとしたら三津五郎さん以外にないとまで言われていたのです。

通夜があった17日、たくさんの弔花と坂東家の提灯に火が入った自宅へ、梨園の名門が続々とつめかけました。
舞踊の門弟だけでも、教百人が焼香の列に並んでいたのです。

幼い頃からの親友であった十七代目・中村勘三郎さんは弔辞で、

子どもの頃からバカヤローづき合いだった。まったくいいやつで、昭和の初めに新劇場って劇団を作った時には、宝物にしていた写楽の絵を売って資金にしたんだよ。凝り性でね、13年前、歌舞伎座の「新書太闇記」で彼が竹中半兵衛、あたしが藤吉郎をやった時も、あいつは秘蔵の何百万円という茶碗を持って来た。あたしがたまげたら、80万円のに変えたが、それをそそっかしい藤吉郎が蹴とばして割っちまった。さあどうしよう。えらいことになったと、あたしは青くなったがね。「いいんだよ」って笑って、弟子に欠片を拾わせて復元した。なんでフグなんかで死んじまったんだ。バカヤローめ…

と語り、女形の六代目・中村歌右衛門さんも、

去年、国立劇場でご一緒したのが最後です。三津五郎さんは、いつも若い者を引き立てて、親身に芸を教えてくださったのに、全く残念なことをしました。今の歌舞伎になくてはならぬ貴重な老役でしたが…

坂東好太郎さんは三津五郎さんを「兄貴」と幕い、息子を預かってもらうはずだったのですが、

まだ信じられない。食通のしゃれで、ついついフグの肝を食べたのでしょうが、心の張りを失ってしまいそうで…

と語り、若手の七代目・尾上菊五郎さんと二代目・中村吉右衛門さんは涙を堪えながら、

楽屋へ行っても気さくに迎えてくださって、お茶をご馳走になったり、本当によくしてもらいました。これから教えて頂くことが沢山あり、色々吸収しなくてはならなかったのに…

と、コメントしたのです。

この他にも、梅幸さん、幸四郎さん、松縁さん、仁左衛門さん、扇雀さん、芝翫(しかん)さん、辰之助さん、半四郎さん、延若さん、雀右衛門さん、勘九郎さん、光輝さん、吾妻徳穂さん、藤山一郎さんなどが、仏前に頭を下げ、故人を偲びました。
18日に密葬を済ませ、葬儀は1月28日、青山斎場で行われたのです。

三津五郎さんの死後、物議を醸したのが、危険を承知の上でフグの肝を4人前も食べた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っている板前の包丁さばきがいけなかったのかという点でした。

法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎さんに板前が渋々料理を出したことが争点となりました。

当時、フグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったのですが、この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、調理人の笠岡忠利さんに業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出ています。




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