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芸能界でもこれまで様々な病気や怪我で苦しんで来た人は少なくありません。
例えば、株式会社石原プロモーション相談取締役である「渡哲也」さんもその一人ではないでしょうか。
過去に病気や怪我で、幾度も手術や入院をした経験を持つ渡さん。
今回は、そんな渡さんが1991年に経験した直腸癌(ちょくちょうがん)に関するお話です。
名前:渡哲也(わたりてつや)
本名:渡瀬道彦(わたせみちひこ)
生年月日:1941年12月28日(77歳)
職業:俳優、歌手
所属:石原プロモーション
出身:兵庫県淡路島
学歴:青山学院大学経済学部
渡哲也…弟の渡瀬恒彦から直腸癌を知らされる
1991年6月14日、仕事先の東京・砧(きぬた)の東宝撮影所で、
兄は本当に強い男でした。
と、語ったのは渡哲也さん(当時49歳)の弟・渡瀬恒彦さん(当時46歳)でした。
兄の渡さんが癌(がん)と告知されたことに関して渡瀬さんが会見を開いたのです。
渡瀬さんの話によれば、渡さんは原因不明の下痢が続くなど、体調の不良を感じ始めたのは、およそ半年ほど前(1990年半ば)でした。
それ以来、状況は改善されず、癌告知の1ヵ月前の5月2日に執り行われた石原軍団・秋山武史さんの結婚式にも、渡さんは主賓として出席していましたが、体調は相変わらず良くなかったのです。
けれども渡さん自身は、 そのことをほとんど周りの人には感じさせませんでした。
しかし、秋山さんの結婚式から6日後の5月8日、体調不良の原因が直腸内にできたポリープであることがわかります。
実は渡さん、1971年以降も3度に渡って、胸膜炎(きょうまくえん)などで長期入院を強いられていました。
そのため健康管理には人一倍気を遣い、1974年からは月に2回ずつ病院で定期検診を受けていたのです。
ポリープはこの検査で発見されました。
5月27日には、内視鏡を使ってのより精密な検査を行われます。
この時にポリープの一部を切除し、培養検査にかけたところ悪性のポリープ、つまり直腸癌であることが判明しました。
結果はまず、渡さんと共に石原プロを支える故・小林正彦専務(元・代表取締役専務)に伝えられました。
小林専務は、すぐにそれを渡さんの妻の俊子さん(当時48歳)と、弟の渡瀬さんに伝えたのです。
この段階で、病院側の見解は「早期発見なので、切除すれば必ず治る」というものでした。
問題は、それを渡さん本人に告知するかどうかです。
如何に病院側に「治る」と言われたとはいえ、本人を目の前にして「癌だ」と告知することには、やはり相当の勇気が必要でした。
弟の渡瀬さんは、この日から小林専務が兄に告げるまでの3日間が「一番辛かった」と語っており、こう会見で話しています。
癌を告知した場合としなかった場合、 それぞれその後、どうなるのかとずっと考えていました。でも、兄はあのように強い男です。最終的には、告知された方が、きちんと闘病できるのではないかと思いました。
一方の小林専務も苦悩は同じでした。
実は1987年7月に肝細胞癌で亡くなった石原裕次郎さんの時には、小林専務は渡さんと相談した結果、心を鬼にして癌であることは裕次郎さんにも妻のまき子さんにも告げず、二人だけの胸のうちに秘めておこうと決めたのです。
3年間に及んだ裕次郎さんの闘病生活。
その間、ずっと隠し続ける辛さは十二分にわかっていました。
裕次郎さんが亡くなってから、二人はその辛さを思い出し、
お互いに何かあったら、必ず隠さずに話そう。
と、約束し合っていたのです。
こうして6月2日、ついに癌は渡さん本人に告知されました。
しかし、当の渡さんは顔色一つ変えず、
みんなに迷惑かけて、すまないな。
と、落ち着き払った態度に、弟の渡瀬さんでさえ、
弟の口からこんなことを言うのも変だけど、兄は本当に精神的に強い人でした。
と、驚きのコメントをしています。
しかも、渡さんはこれだけでなく、癌を告知された後、それを世間に公表したのでした。
この時、渡さんは、
自分は役者であると同時に石原プロの社長でもある。その立場と責任を考えたら、隠しておくことは、返って会社の運営に支障をきたす。
病気は天命。自然に任せるしかない。
と、語りました。
事実、渡さんにはこの段階では、まだ「代表取締役刑事」(テレビ朝日系)の出番が残っていましたが、渡さんは自分の出番のところだけを入院する前日の11日夜までに撮り終えています。
また、残る最後の難関である母・雅子さん(当時73歳)にも、癌であることを渡さん自身が告げました。
母の雅子さんは、夫の賢治さんを同じ直腸癌で失っていることから、特にそのショックのほどが心配されていたのです。
しかし、渡さんは自分の癌が早期発見であることを、雅子さんに説明し、
最善を尽くすから大丈夫。必ず生きて病院から帰ってくる。
と、母を勇気づけたのでした。
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渡哲也…直腸癌の手術と人工肛門への葛藤
癌告知を受け、気丈にも自らの病気を公表した渡哲也さん。
手術は1991年6月20日の午前10時から始められ、午後1時に無事に終了しています。
しかし、手術前に渡さんは大きな問題を抱えていました。
それこそ、オストメイト(人工肛門)の使用に関してです。
この点に関して、弟の渡瀬さんが苦しげに告白しました。
5月30日、私は兄が癌であることを小林専務から知らされました。そして最悪の場合は、助かる方法としては人工肛門しかないということも…兄は最後まで人工肛門をつけることを拒否し続けました。それは兄の俳優としての男の美学だったと思います。もし人工肛門をつけても、これから何年生きられるものか。それだったら、このままで生きられるだけ生きたいと…同じ俳優である私には、その気持ちが痛いほどわかりました…
医師との話し合いが、6月15日から手術直前の19日まで続けられていました。
執刀した虎の門病院の故・秋山洋(ひろし)副院長(その後は名誉院長)はこう語っています。
癌の部分は肛門から2~3センチの所にありました。渡さんの職業が俳優であり、私共も手術前日まで精密検査を重ねた結果、後々まで心配しないようにと出した結論が人工肛門の接続だったのです。渡さんは最後の最後まで悩んでおられましたが、「俺のわがままでした」と言って同意してくれました。
妻の俊子さんも胸が張り裂けそうな毎日で、
俳優でも何でも、とにかく夫の命だけは助けてください。
と、涙ながらに訴えたと言います。
他の方法は無理。過去に病気をしているから、肺機能がもたない。
と、言われた渡さんが、
俺の肺はそんなダメなのか…やっぱり命と引き換えにすることじゃないな。闘うよ。やっと気持ちの整理がついたよ。
と、病室にいる小林専務に決意を語ったのは、手術前日の夜半のことでした。
命の尊さに関しては、この4年前、当時の石原プロ社長だった石原裕次郎さんを肝細胞癌で亡くなっていただけに、小林専務には重々わかっていたのです。
だからこそ、手術前夜から当日までほとんど一睡もせずに、小林専務は悩みに悩み、渡瀬さんと俊子さんに最後の相談を持ちかけたのです。
人工肛門に同意した後も、肺機能を鍛えるため風せんをふくらましている渡の姿を見たら、いくら博打であっても、人工肛門をつけずに済む方法にチャレンジしてみようと思ったんです。人工肛門という言葉の響きは俳優である渡にとって、癌の怖さ以上にかなわんと思いました。人工肛門をつけてしまえば一生残ってしまう…私は考えたあげく、奥さんに「賭けてみましょう」と言ったんです…
小林専務の相談を受けた俊子さんは、しばらく考えた末、
そうですね、主人の体は私達だけのものではないですものね…
と、危険な賭けを了承しました。
そんな二人の熱意に打たれた医師団は、もし患部の状況が良ければ、人口肛門を接続しないで局部切除手術をすることに同意してくれたのです。
しかし、いざ手術が始まり、患部を開腹してみると癌が思ったより進行していました。
癌は直腸の粘膜下層にまで達しており、医師団6人の判断で直腸を25センチ切断し、人工肛門を接続したのです。
麻酔で眠っていた渡さんは、このような賭けがあったことなど露とも知らず、手術室から出てくると、「おい、タバコをー本くれ!」が第一声でした。
スタッフや家族が驚いた顔をすると、「冗談だよ」と笑っていたと言います。
人工肛門を付けたくらいで渡は誰にも負けません。いずれ以前よりもっと強い俳優・渡哲也をお見せします。
と、小林専務は全てを吹っ切って語り、渡瀬さんは、
私は、人工肛門のことだけは発表したくなかったのですが、兄と小林さんに負けました。これからが兄にとっては本当の闘いです。
と、会見を締めくくったのです。
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渡哲也…直腸癌の手術を経て
1991年6月20日に直腸癌の摘出手術を受けた渡哲也さん。
術後の経過はすこぷる順調で周囲をほっとさせました。
入院中の東京・港区の虎の門病院には連日、見舞い客が訪れ、全国から激励の電話や手紙が殺到したのです。
6月23日には、松田聖子さんが見舞いに訪れました。
朝から雨が降る中、自宅から車でかけつけた聖子さんは、白のスーツに身を包み、やや緊張した面持ちで病室に向かいます。
約5分間という短い面会時間でしたが、聖子さんは
とてもお元気なので驚きました。
と、報道陣にその印象を語りました。
術後すぐにでも伺おうと思っていたという聖子さんでしたが、コンサートツアーの真っ最中で、九州・四国を回っていたために、この日になってしまったのです。
「いかがですか?」の聖子さんの問いかけに、「元気だよ」と答えた渡さんから逆に、
君も忙しい毎日だから、この際、検診を受ければ…
と、身体の心配をしてもらったと言います。
夫の神田正輝さんはその前に見舞いを済ませていましたが、この日は仕事でパリに出かけており、
(神田と)二人で定期検診を受けた方がいいかな…なんて電話で話しました。
と語りました。
聖子さんを驚かせたほどに術後の渡さんの回復は目覚ましく、体重も手術前72キロあったものが、その時は71キロとほとんど変わらず、一時は高かった体温も平熱にまで戻っていたのです。
また、6月22日には峰竜太さん・海老名美どりさん夫妻が、渡さんの妻・俊子さんのために手作りのお弁当を差し入れましたが、病室の隣に用意された控え室で、その美味しそうな料理を見た渡さんが「食べたいな」と食欲もありました。
ただ、この時点では、渡さんがロにしていたのは水だけで、栄養分は点滴で補給している状態。
24日になって、ようやく流動食を摂るようになったのです。
体力の回復も早く、手術の翌日には院内の廊下を20メートルほど歩き、その3日後には500メートルも歩けるようになりました。
また、弟の渡瀬恒彦さんによると、
毎朝、兄貴から母に「俺は大丈夫、元気だよ」という電話が入っているようです。だから母も安心してるみたいです。
とのコメントも出ており、母親への気遣いも忘れなかったと言います。
その後も渡さんは順調に回復し、大河ドラマ「秀吉」(1996年)や「義経」(2005年)に出演することができました。
2009年12月23日放送の年末スペシャルドラマ「帰郷」(TBS)では、弟の渡瀬さんと約40年ぶりの共演を果たしています。
2017年4月1日からは石原プロモーションの経営陣復帰し、現在は相談役と取締役を兼任しています。
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