1970年に16歳で日本民謡協会主催の第19回全国大会個人優勝杯戦優勝し、1975年にアルバム「若い民謡」でデビューを果たした「金沢明子」さん。
ジーパン姿で民謡を歌う姿が注目されたこともあり、1979年からは2年連続でNHK紅白歌合戦に出場。
当時は、1日に3時間しか睡眠時間が取れなかったこともあるほどの売れっ子になりました。
そんな金沢さん、実は若い頃にあまりの忙しさでレコーディングの途中で声が出なくなり、緊急入院したことがあったのです。
名前:金沢明子(かなざわあきこ)
生年月日:1954年10月25日(64歳)
職業:民謡歌手
所属:カナザワオフィス
出身:千葉県市川市
学歴:豊南高等学校女子部
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1979年9月13日、金沢明子さん(当時23歳)が入院したという知らせが入ります。
それを聞いて、当時はフジテレビディレクターで婚約者の前川尚史さんが赤坂の山王病院に駆けつけました。
病院には「面会謝絶」の貼り紙がしてあったのです。
すでに金沢さんは医師から一切の発声を禁じられていたため、前川さんの顔を見ても、思いをロで言い表すことができませんでした。
この日、二人は簡単に筆談し、前川さんが金沢さんを励まして帰ったのです。
そもそも前川さんが金沢さんからノドの痛みを訴えられたのは、その4日ほど前。
金沢さんが弘前と東能代の公演から帰って来た直後のことでした。
「大したことはない」というので、それほど気にも止めなかったのです。
前川さんも「気をつけるんだよ」と注意をしただけにとどまりました。
弘前と東能代の公演は9月7日と8日。
ノドに少し痛みを感じていましたが、金沢さんは声を張り上げて歌い切ったのです。
ただ、地方の会場であるため、いつもとは音響設備やマイクの勝手が違いました。
それ補う分だけ、余計にノドに負担がかかったのです。
これに加えて、公演地の移動という肉体波労が重なりました。
ノドと体の疲れと不調は、精神的な消耗を招き、金沢さんはヘトヘトになって帰って来たのです。
しかも帰京した9月9日、青山のビクタースタジオでレコーディングの仕事が待っていました。
このレコーディングには婚約者の前川さんも立ち会っています。
「ノドが痛い」と言い出して、そのうちに声を出すのが苦しそうになってきたんです。無理をすれば出せたかもしれないが、とてもレコーディングする声じゃない。やむなく中止しました。
とコメントした前川さん。
翌10日朝、本格的に声が出なくなりました。
11日には歌手のノドの管理で知られた米山耳鼻咽喉科の米山文明先生の診断を受けた結果、13日から山王病院に入院することになったのです。
病院では15日まで発声を一切禁じられました。
もちろん、全然しゃべれなかったわけではありませんが、ノドを休ませることが最良の治療法だったのです。
付き添いの母・芳江さんとの用事も全て筆談でした。
心配されたのは、ノドの単なる疲労なのか、それとも何かキズがあるのかという点でした。
その点に関して、米山先生からは、
病名は急性咽頭咽候炎と急性浮腫性声帯炎。キズは絶対にありません。声帯の筋肉が披露し、むくんでいるだけです。症状としては入院を必要とするほどでもないのですが、放っておけば悪化するし、肉体疲労も甚だしいので、安静のために入院してもらいました。
とコメントが得ました。
また、心配されていた遺症についても、
全くない。声が変わるということもない。
と安心の言葉も出たのです。
この病気はノドを精一杯張って歌ったためで、中でも津軽ものと呼ばれる民謡の場合、ノドへの負担がより大きく、発病の危険も高くなってしまうのです。
加えて、もう一つの要因は全体的な肉体と精神の疲労にありました。
実際、金沢さんのスケジュールの過密ぶりは大変なものだったのです。
中止になった9日のレコーディングの後のスケジュールを振り返ると、10日に東京12チャンネルの民謡番組(2本撮り)とクイズ番組、11日にはフジテレビ「お茶の間スペシャル」(5本撮り)とくクイズ番組が入っていました
さらに12日はNHK、13日に平塚労音、14日には民謡大会のゲストとラジオ。
15日にはビクターのチャリティーショー、17日は12チャンネルの2本撮りとワイドショーがあったのです。
また、18日にはフジテレビ(5本撮り)、19日は伊東での出演。
20日と21日は大阪、神戸で原田直之さんとのリサイタルといった具合だったのです。
結局、この20日・21日の分まで全てキャンセルされました。
このキャンセルに関しては、当時ビクター学芸宣伝課長であった中山さんはこう語っています。
まあ、生身の人間のこととして理解して頂けるでしょうから、キャンセル料の金額は多くなりませんが、その代わり、すでに来年3月までスケジュールは一杯ですが、その間をなんとかやりくりして、できるだけ穴理めをしなけりゃたなりません。
当時、金沢さんの現場マネージメントは母の芳江さんが担当し、スケジュールは姉の陽子さんに任されていました。
こうした家族的なやり方が、返って裏目に出ているのではないかと、中山さんは指摘しています。
専門のプロダクションのようにドライに仕事を選抜できない面がどうしても出てしまっていました。
しかし、一方で金沢さんのアットホームな魅カを支えているのは、母や姉のおかげでもあったのです。
その後、金沢さんは19日まで入院し、20日には退院。
17日からは発声の練習も始めることができました。
22日、日本テレビの「民謡特番」が退院後の初仕事となったのです。
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