映画「彼岸花」や黒い十人の女」、「私は二歳」などに出演…
1950年に記念すべき第1回ミス日本に選ばれたのが「山本富士子」さんです。
そんな山本さんはある時期から映画に全く出演しなくなってしまったのですが、これには衝撃的な理由があったのです。
名前:山本富士子(やまもとふじこ)
生年月日:1931年12月11日(87歳)
職業:女優
出生地:大阪府大阪市西区立売堀(いたちぼり)
学歴:京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)
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山本富士子さんは1953年に大映に入社して100本近くの映画に出演しましたが、1963年のフリー宣言をきっかけに映画界からホサれる騒ぎになったことがあります。
原因は悪名高き”五社協定(大手映画会社5社である松竹、東宝、大映、新東宝、東映が1953年9月10日に調印した専属監督・俳優らに関する協定)”…
マスコミは「日本一の美女を泣かせるな」と非難の声をあげました。
テレビがまだそれほど普及していなかった1950年代の娯楽と言えば映画でした。
年間500本を超えるの映画が製作され、観客動員は延べ10億人にも及んだ時代です。
当時は人気俳優を中心に企画・製作のすべてが進行する”スターシステム“によって作られていました。
この手法は俳優への依存度が高いため、引き抜きや移籍は映画会社に大きなダメージを与えたのです。
そこで1953年に映画会社5社は監督・俳優の引き抜きを禁止する「五社協定」を結び、スターの移動を制限したのです。
山本さんもスターの一員として大映専属で活躍していました。
しかし、スターシステムの映画製作では俳優の意志とは無関係に企画が決定・出演させられることもあったのです。
脚本を読んで諾否(だくひ)を決める余地はありません。
山本さんは1962年の結婚、大映と10年契約が満期となるのをきっかけに独立を決意しました。
当初、大映は「年間主演2本、共演1本、他社出演は自由」という条件で慰留しましたが、その後方針を変更し、「専属かフリーかの二者択一」を迫ったのです。
当時31歳だった山本さんは「契約条件に他社出演が認められながら、実際にはもめるなど”自由”が拘束されてきた」と1963年3月28日、フリー宣言を行いました。
当初、大映の永田社長は山本さんに対し、「いつでも困ったことがあったら帰ってきなさい」、「他社出演を妨害するなんてオレがそんな小さな根性の持ち主か」と発言し、一見和やかなムードに見えた別れだったのですが…
しかし独立後、山本さんを取り巻く環境は一変しました。
フリー宣言以降、山本さんに対する出演依頼が止まっただけではなく、以前に出演契約を交わしていた会社までが出演を断ってきたのです。
「山本に合う役がない、山本のための企画がない」などと、完全に映画界から追放された形になってしまったのです。
その結果、6月に予定されていた歌舞伎座での団十郎さんとの共演も中止に追い込まれ、影響は舞台活動にまで及びました。
一時、山本さんは女優引退まで考えたと言います。
しかし、そんな危機を救ったのはテレビでした。
石井ふく子さん(TBSテレビプロデューサー)の勧めもあり、山本さんは1983年7月7日の東芝日曜劇場「明治の女」で復帰を果たすことになります。
初のテレビドラマ出演で放送が終わって1分も経たないうちに、山本さん宅ではファンからの応援電話が鳴りっぱなしになったそうです。
電話調査による当時の視聴率推計値は43%…
以降、テレビ各局は山本さんの争奪戦を繰り広げるようになっていきました。
その後、山本さんは映画には一切出演していません。
舞台活動もほどなく再開でき、舞台を中心に活躍できるようになりました。
高齢のためか近年は女優としての活動も少なくなってはいますが、2016年には「熱中世代 大人のランキング」(BS朝日)に出演しており、2011年11月21日、夫・丈晴さんのお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれた際には喪主を務めています。
ちなみに、映画界は1964年の東京五輪を契機に一般家庭にテレビが普及したことで、斜陽化の一途をたどりました。
大映は1971年に倒産、これに伴い五社協定も崩壊したのです。
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