当時、くりっとした瞳に広いオデコ…
長い黒髪で人気を博し、1960年代後半に10~20代の男性たちに圧倒的な支持を受けていた「内藤洋子」さんは、1971年3月26日に入籍しました。
1年間の休養期間の末、そのまま芸能界を去ったのは、夫である喜多嶋さんと出会ったからでした。
名前:内藤洋子(ないとうようこ)
本名:喜多嶋洋子
生年月日:1950年5月28日(69歳)
職業:女優
所属:愛企画
出身:神奈川県鎌倉市
学歴:北鎌倉女子学園
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お相手はミュージシャンの喜多嶋修さん…
当時、内藤さん20歳、喜多嶋さん22歳でした。
翌27日夜、東京・西新橋の料理店で両家の親族が集まり、ささやかなパーティーが開かれました。
題して「ヨーロッパへ行く喜多嶋修・内藤洋子の歓送会、あわせて修の卒業祝い」…
喜多嶋さんは同月、慶応大商学部を卒業したばかりでしたが、2人は結婚後イギリスに渡り、永住する決意だったのです。
小学生の時から雑誌「りぼん」のモデルを務めていた内藤さんは東宝と専属契約し、1965年、黒沢明監督の「赤ひげ」で銀幕デビュー…
1966年にはテレビドラマ「氷点」のヒロインを演じ、高視聴率を記録しました。
翌年、リリースしたシングル曲「白馬のルンナ」が大ヒットし、トップアイドルの地位を不動のものとしたのです。
ただ、プライベートな時間がまったくなくなり、内藤さんは不安を感じていました。
このままでは自分が欠陥人間になってしまうのではないかと思い悩んだのです。
そうして絶頂期にあった内藤さんは東宝の社長に「しばらく休ませて欲しい」と直談判したのです。
当時社長だった松岡辰郎さんがとても理解のある人で、内藤の申し出を快くOKしてくれました。
「1年間休みをあげるから好きなことをしなさい。その代わり必ず戻ってくるように」と送り出したのです。
ちなみに、松岡辰郎さんは元プロテニスプレーヤー松岡修造さんの祖父…
しかし、内藤さんはこの松岡さんとの復帰の約束を果たすことはできませんでした。
休養期間に入ってまもなく、生涯の伴侶となる喜多嶋さんと出会ってしまったからです。
その頃、喜多嶋さんは慶応大学に在学しながら、加山雄三さんが率いるバンド「ランチャーズ」でギターを担当していました。
加山さんと喜多嶋さんはいとこの間柄であり、内藤さんも加山さんとは馴染みが深かったのです。
「赤ひげ」で加山さんの新妻を演じたのが、まだ14歳の内藤さんでした。
そうした縁もあり、内藤さんと喜多嶋さんは急接近…
出会った頃のことを内藤さんは「日刊ゲンダイ」のインタビュー(2005年夏)で次のように述懐しています。
当時の私は男性に対してガードが堅かったのですが、彼と出会って人生観が変わりました。
女優業を続けることに迷っていた私に「苦しんでいるならやめたら。人生楽しくなくっちゃダメ」と言ってくれたのです。
そうして、内藤さんはそのまま、あっさり芸能界を引退…
結婚後しばらくロンドンで暮らした後、ロサンゼルス郊外に移住しました。
そこでの食事は自給自足が基本…
肉はほとんど食べず、近くの川や湖で取った魚を調理し、野菜も自分たちが耕した畑で収穫したのです。
そうした生活の中で喜多嶋さんは東洋音楽と西洋ポップスを融合した独自の世界を創り上げ、米国でも注目される演奏家になっていきます。
一方、内藤さんは主婦に徹し、一男二女を育てました。
ちなみに長女の喜多鳴舞さんは2015年11月30日、「公私のけじめ」などの理由をもって芸能界を引退しています。
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