芸能界やスポーツ界で著名人の難病告白や闘病宣言会見には驚かされることが多いかと思います…
その中でも1993年の「逸見政孝」さんの会見は今なお記憶に残る衝撃会見でした。
名前:逸見政孝(いつみまさたか)
生年月日:1945年2月16日~1993年12月25日(享年48歳)
職業:アナウンサー、タレント、司会者
出身:大阪府大阪市阿倍野区
学歴:早稲田大学第一文学部
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1993年9月6日15時…
フリーアナウンサーの逸見政孝さん(当時48歳)が日本テレビで会見を開きました。
頰がこけ、顔色の悪い逸見さんの口から飛び出したのは闘病宣言だったのです。
「私が今、侵されている病気の名前、病名はがんです」
この言葉で静まり返る会見場…
集まった100人の取材陣は言葉を失いました。
実は逸見さんは1月18日に晴恵夫人(当時43歳)と一緒にがんを告知されていたのです。
その際、穿通性十二指腸潰瘍と嘘の病名を発表していました。
この日の会見でまずこのことを詫び、既に2回の手術を行ったものの、がんが転移しており、別の医師に「手術しないと1年持たない」と9月3日に告知されたこと、断腸の思いで3カ月仕事を休んで手術、治療に専念することを報告したのです。
1988年にフジテレビを退社した逸見さんは全キー局を制覇する人気ぶりでした。
「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」(日本テレビ系)や「たけし・逸見の平成教育委員会」(フジテレビ系)など高視聴率のレギュラーを抱え、日テレだけで期首特番が4本、フジの10月からの新番組の司会が決まっていたのです。
「こうやって皆さんに公表したということによって、自分にこれからはがんと闘うんだということを言い聞かせる意味でも公表致しました」と決意を語りました。
最後に「もう一回ね、いい形で『生還しました』っていうふうに言えればいいなと」と締めくくったのです。
逸見さんの熱い闘病宣言に芸能リポーターから「頑張って下さい!」と声が掛かり、会見場には激励の拍手が鳴り響きました。
翌日から事務所は闘病生活を報告…
日本中が頑張れムードとなり、テレビ局は「復帰まで待つ」と代役を立てて、逸見さんの帰りを待ったのです。
9月16日、逸見さんは13時間にも及ぶ大手術を受けて、がんが転移した内臓3キロを摘出…
10月15日に手術後1カ月の直筆メモと写真が公開されました。
その写真とは同月8日に米ボストンに留学中の長男、太郎さん(当時20歳)が帰国し、見舞った際に撮られたものでした。
ひと回り瘦せた浴衣姿が痛々しくもありながら、ベッドから下りてきちんと椅子に座って書かれたという文面は家族への愛情に満ちあふれていたのです。
「病室であっても今年の結婚記念日を笑顔で迎えられたことに感謝しています」…
けれども病の進行はあまりにも早く、12月25日にがん性悪液質で帰らぬ人となったのです。
のちに早期がんではなく、悪性のスキルスがんであることが判明…
末期の状態であったにもかかわらず、なぜ大手術を受けた(受けさせた)のか?…
クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だったというような疑問・批判の意見が多数あがり、医学論争まで起きました。
残されたのは家族と世田谷区奥沢に逸見さんが建てた敷地130坪、3階建ての豪邸のために借り入れた12億7000万円のローン…
晴恵夫人はこの返済もあって家族の思いを本にまとめて講演会のために各地を飛び回りました。
しかし、逸見さんの死後半年で子宮頸がんと骨髄異形成症候群に倒れ、2007年に発症した肺胞蛋白症で2010年10月21日に他界しています。
現在、長男の太郎さんは一般女性と結婚し、2017年4月3日から福島放送の夕方帯番組「福島まるごとライブ ヨジデス」司会を担当しています。
長女の愛さんは女優やレポーターとして、舞台「YUKI TORII BRIDAL FASHION SHOW」やテレビ「天才!志村どうぶつ園」(日本テレビ系列)などにも出演していました。
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