昭和60年となる1985年8月12日18時24分…
離陸間もない羽田発伊丹空港行き日本航空123便から、緊急事態発生の一報が入りました。
機体後部の破損から尾翼油圧システムすべてを失い、操縦不能に陥り、32分後の同56分に群馬県御巣鷹山南東の山中に墜落…
乗員乗客524人中520人が亡くなる国内最大の航空機事故となったのです。
これこそ史上最悪の墜落事故とされる“日本航空123便墜落事故”でした。
事故機には「上を向いて歩こう」で知られる「坂本九」さん(当時43歳)が乗っていたのです。
名前:坂本九(さかもときゅう)
本名:大島九(おおしまひさし)
生年月日:1941年12月10日~1985年8月12日(享年43歳)
職業:俳優・タレント・歌手
出身:神奈川県川崎市川崎区
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妻で女優の柏木由紀子さん(当時37歳)は19時半のニュースで事故を知りました。
これまで坂本さんは空路での移動は常にANA(全日本空輸)を使っており、何かの間違いでは?と思ったのです。
柏木さんはすぐに事務所に連絡し事実確認…
悲報が現実のものとなっても信じられないといった様子で、放心状態でした。
事故現場からは4人の生存者が救出されましたが、柏木さんの願いもむなしく、8月16日深夜に坂本さんの遺体が確認されたのです。
坂本さんは当日、大阪府羽曳野市議選に立候補する元マネージャーの「香川弘行(かがわひろゆき)」さん(当時41歳)の事務所開きに駆けつける予定でした。
2人の関係は、坂本さんが「上を向いて歩こう」でゴールドディスク獲得した1960年代前半にさかのぼります。
当時、慶応の学生だった香川さんは空手3段の腕を見込まれ、ボディーガードを兼ね坂本のマネージャーを務めました。
20歳そこそこの2人は24時間行動を共にし、互いを「あいつ」、「ひさし(坂本の本名)」と呼び合う仲になったのです。
香川さんは3年ほどで実業家を目指して大阪に移ったのですが、2人の友情はその後も続いていました。
香川さんが事務所開きの応援を頼んだ時も「わかった。とにかくスケジュールを全部送れ」と快諾…
大阪に来てもらうため、香川さんは3時半にNHK-FMの仕事を終える坂本のために、同機のチケットを手配したのですが、不運にもそれが事故とぶつかってしまったのです。
香川さんは13日の事務所開きでは後援者を前に「私が…呼ばなければ…」と挨拶するのがやっとでした。
さらに18日の告別式後には「直接、私のために九が死んだのではないといくら言われても、奥さんの気持ちは複雑でしょう」、「奥さんには恨まれても仕方がない。今はただ冥福を祈るばかりと心境を語ったのです。
芸能関係者にも衝撃が走りました。
兄貴分のジェリー藤尾さんは「木に引っかかっても生きてるよ。今でもそう思ってる」とコメント。
石倉三郎さんも「九ちゃんが死んだなんて信じたくないスよ」とコメントしました。
中村八大さんと共に「六八九トリオ」と呼ばれた永六輔さんはマスコミからの電話取材をすべて断り、1986年12月に追想本「坂本九ものがたり六・八・九の九」を出版しています。
坂本さんの遺影と共に選挙戦に臨んだ香川さんは見事当選…
その後、羽曳野市議会の議長を務めるなど政治家として活躍しました。
柏木さんは坂本さんが担当していたクイズ番組の司会を引き継ぐなど芸能活動を本格再開…
事故当時、小学生だった2人の娘も芸能界入りし、2004年に結成した母娘3人ユニット「ママエセフィーユ」も話題となりました。
ちなみに坂本さんの曲は、日本航空(JAL)の機内オーディオサービスでは他アーティストのカバーを含め絶対にかけられないと言います。
事務所側が拒否しているのはもちろん、他のアーティストが歌っている「明日があるさ」がかかっただけでも、日本航空へ乗客からクレームが殺到したためと言われています。
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