川合俊一さんや井上謙さんらと共に「バレーボール界のビッグ3」と言われ、全日本バレーのエースとして活躍していた「熊田康則」さん。
そんな熊田さん(当時24歳)が嫁の杉本定和子(すずもとさわこ)さん(当時25歳)と結婚式を挙げたのは、1988年の12月6日のことでした。
今回はそんな熊田さんと定和子さんの馴れ初めと結婚式に関するお話です。
名前:熊田康則(くまだやすのり)
生年月日:1963年3月18日(56歳)
職業:元バレーボール選手、指導者
出身:神奈川県
学歴:法政大学
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熊田康則さんと杉本定和子の二人が出会ったのは、1987年の12月6日のことでした。
この日、世界選手権から帰国した熊田さんは、川合俊一さんら全日本メンバーの慰労会(いろうかい)があったのです。
その2次会で入った小田原市内のスナックに、たまたま居合わせたのが定和子さんでした。
このスナックで出会って、親しく会話したのが二人の馴れ初めだったのです。
当時、定和子さんはスナックに勤めていたというわけではなく、歯科医院に動務していたため、この出会いは全くの偶然でした。
中学時代はバレーボールをやっていた定和子さんでしたが、熊田さんのことは知らず、初めて会った時は、
なんて偉そうな、態度の大きい人なんだろう。
という印象を持ちました。
しかし、お互いに何か感じるものがあったのか、それとも熊田さんのアプローチが功を奏したのか、愛を育み合ってあれよあれよという間に結婚にこぎつけたのです。
挙式の日は、二人が知り合ったちょうど1年後の1988年12月6日。
神様がくれた偶然を大切にしたいという気持ちでこの運命の日に決めたと言います。
当日の箱根は、あいにく雪模様でしたが、全日本のスター選手の挙式とあって、寒風吹き荒れる中、早朝から約300名のファンが駆けつけました。
中には熊田さんの晴れ姿を一目見ようと、前日から箱根に泊まりこんだ熱心なファンもいたほどです。
挙式は、箱根・ホテル小涌園で、富士フイルムの井原文之監督(当時)夫妻の媒酌で午前中にとり行なわれ、被露宴はこのホテルの蓬莱の間で12時半から催されました。
これには日本バレーボール協会専務理事(当時)・松平康隆さん(現:日本バレーボール協会名誉顧問)を始め、この一週間前に結婚したばかりの杉本公雄さん、川合さんらのチームメート、全日本チームのメンバーであり、当時は日本鋼管(現:JFE)に所属していた井上謙さん、住友金属に所属していた田中直樹さんといった選手達約150名が悪天候の中を駆けつけてくれたのです。
披露宴は、媒酌人の井原監督の挨拶、主賓による祝辞と順調に進み、やがてウエディングケーキの入刀が行なわれました。
このウエディングケーキは、全長5メートルで、最上段にはサーブする熊田さんをイメージした人形が飾られ、中段にはさらにバレーボ一ル6個がデコレートされています。
ホテルの調理課長が自らデザインし、2週間かけて作りあげた自信作でした。
新郎新婦がお色直しに退席している間も、定和子さんの叔父さんが自慢の歌を披露したり、ミュンヘンオリンピックで森田淳悟さんや大古誠司さんらが活躍した頃からのバレーボールファンだという演歌歌手の北原由紀さんが「娘よ」を歌って会場を盛りあげたのです。
やがてキャンドルサービスに移りましたが、親しい人たちからロ々に祝福されて感動したのか、定和子さんが思わず涙ぐむシーンもありました。
実はこの少し前にも、定和子さんは報道陣に応えて、お色直しの写真を撮らせていましたが、ここで感極まったのか、後ろを向いて涙をこらえるシーンがあったのです。
一方、熊田さんはずっと独身生活を送った富士フイルムバレー部の合宿所・緑寮の後輩達が寮の卒業証書と言って、全員がサインした記念のボールを受け取って、場内の笑いを誘いました。
さらに、定和子さんが歯料医院に動務していた時の友人達が、「私たちを差し置いて、 先に結婚するとは残念です。でもお手本になるような、立派な家庭を築いてください」とこちらも場を盛り上げました。
結婚後、熊田さんは富士フイルムで1992年からコーチ兼任となり、1994年度で現役を引退します。
その後はバレーボール指導者として様々なチームを渡り歩き、2011年9月に富士フイルムを早期退社。
2014年8月には博多ジュニアバレーボールクラブのスーパーアドバイザーに就任しました。
また、娘の熊田美愛(みのり)さんが1991年8月19日に生まれ、現在はビーチバレーの選手としても活躍しています。
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