キザな口調と仕草で人気を博した四代目・「三遊亭小圓遊」(さんゆうていこえんゆう)さん。
そんな小圓遊さんは、1980年10月5日の19時44分に食道静脈瘤破裂により亡くなっています。
「40代、50代はまだひよこ」と言われる落語界では、当時、先に林家三平さんが54才で他界、さらに43歳で小圓遊さんと、二人の人気噺家を失った衝撃に業界は打ちひしがれたのです。
名前:四代目・三遊亭小圓遊(さんゆうていこえんゆう)
本名:関根尚雄(せきねひさお)
生年月日:1937年8月3日~1980年10月5日(享年43歳)
職業:落語家
所属:落語芸術協会
出身:群馬県前橋市
学歴:東京都立文京高等学校(中退)
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三遊亭小圓遊さんは1980年10月4日、山形県・村山市民会館での「爆笑名人会」に出演のため、上野駅に向かっていました。
駅の食堂で朝食をとり、電車に乗ってからも同行した林家木久蔵さんやコミックバンド・バラクーダーのメンバーと冗談を言っていたと言います。
そうして昼項に村山市に着き、市民会館へ入りました。
気分が悪い…
そう洩らしたのは、楽屋で談笑していた時です。
小圓遊さんのマネージャーも、
そのうちに嘔吐したんです。出演を辞退したらと思ったのですが、師匠(小圓遊さん)は「山形まで来て、出ないのはお客様に失礼だ」と高座に立ったんです。
とコメント。
舞台に出た小圓遊さんは、立ち高座で漫談ふうな一席を5分ほど短縮しながらも大いに笑わせて降りて来ました。
二度目の吐血はその直後…
しかも大量でした。
すぐに救急車で北村山公立病院に運ぶ一方、東京の小圓遊さん宅にも急変が知らされます。
藤子夫人は急きょ車で、5日朝には病院に駆けつけました。
長男の一正さん(当時高校一年生)と長女の一未さん(当時中学一年生)は、10月5日夕方6時半に電車を利用して病院に到着。
家族が揃うのを待っていたかのように、小圓遊さんは息を引き取りました。
病名は食道静脈りゅう破裂。
肝臓疾患で起こる病気で、薬による治療も手術も難しい病気でした。
小圓遊さんの本名は関根尚雄。
群馬県前橋の生まれです。
1955年4月、三遊亭圓遊さんの一門に入り、金遊の名前でデビュー。
1958年9月に二ツ目に昇進し、1968年10月には真打ちとなり小円遊を名乗りました。
25年のつき合いがあり、CMにも共演していた故・桂歌丸さんは肩を落として、こう語っています。
二人で巡業に出て、少ないギャラを分け合って苦労した仲なんです。兄弟を亡くした寂しさに襲われます。最近、酒の量が増えたので「体には注意しろ」と言ってたんですが、こんなことになって残念で仕方がない…
小圓遊さんはキザが売りものでしたが、五代目・三遊亭圓楽さんは、
金遊時代は後年のイメージでは考えられないほど、サラッとした奴だった。
とも語り、
真打ちに昇進する前ですが、僕が笑点で売り出すと、「名前が世に出て、あにさんがうらやましい。俺は古典では人気が出ないし、新作をやろうと思うんだけど」と相談に来たことがあるんです。僕は馬鹿を言うな、「古典でやっていける」と言ってたんです。
とコメントしました。
キザで売り出したのは、笑点がスタートして3年目にレギュラー入りしてからのこと。
当時、「星の王子様」や「正義の味方」で名前を売った円楽さんが、「キザもいいとこで勝負してみたら?」とアドバイスしたことがきっかけで、一躍、売れっ子噺家になったのです。
普段は洋服で高座に出る時に和服に着替える噺家が多い中で、小圓遊さんの場合は公私を和服で通した芸人でした。
しかし、亡くなる7~8年前から、突然サファリルック(1960~70年代にかけて流行したファッション)を着るようになります。
理由は藤子夫人が元デザイナーで、小圓遊さん曰く、
かみさんが変わったら、趣味も変わるんです。
ということ。
藤子夫人とは再婚でしたが愛妻家でした。
また、山形に発つ前々日の2日、「子どもが好きだから」と、一正さんと一未さんを連れて洋画の試写会に行っています。
これが愛妻と子供たちへの最後のサービスでもありました。
円楽さんは、
三平さんと小円遊は楽屋で笑わせる双壁だった。仲間にもよく思われたかったのでしょうね。小心者だったけど、仲間の評価なんか気にしない僕なんかと違って、二人こそ本当の噺家じゃないかと思う。本当に残念です。
と語り、突然の訃報に絶句したのでした。
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