演歌界の大物、サブちゃんこと「北島三郎」さん。
そんな北島さんが、実は1985年にブラジルの日系病院に寄付をしたことがありました。
果たして、この北島さんの寄付にはどのような背景があったのでしょうか。
名前:北島三郎(きたじまさぶろう)
出生名:大野穣(おおのみのる)
生年月日:1936年10月4日(83歳)
職業:演歌歌手、シンガーソングライター、俳優、馬主
所属:北島音楽事務所
出身地:北海道上磯郡知内村(現・知内町)
学歴:東京声専音楽学校
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1985年6月1日から6月27日まで、新宿コマ劇場「北島三郎特別公演」に出演していた北島三郎さん。
北島さんは6月22日に、この日の全収益730万円を全て、ブラジルのサンパウロ日伯援護協会に寄付したのです。
果たして、北島さんにはどのような思いがあったのでしょうか。
そもそも北島さんのブラジルへの思い入れは、この時に始まったわけではありませんでした。
実はこの2年前の1983年3月、北島さんのもとに「約80万人の日系人のために、是非ブラジル公演を」という話が持ち込まれます。
その時、北島さんは何気なくこう尋ねました。
今、同胞が一番困っているのは何ですか?
と。
答えはすぐに返ってきました。
それは何と言っても病院ですよ。高齢化した一世たちは「せめて老後は日本語のわかる病院で看護してもらいたい」という夢を持っているんです。
この時から、「是非、サンパウロに日系病院を」というのが、北島さんの見果てぬ夢となったのです。
この一年前の1984年2月も、ブラジル公演を行った北島さんは、その収益である1億6000万クルゼイロ(ブラジルの旧通貨単位で当時のレートで約900万円)を日系病院設立のための基金に寄付しました。
この北島さんの善意は大きな波紋を描くことになり、日本政府としても黙視はできなくなります。
そしてサンパウロにある日本工業移住センターの土地を払い下げ、念願の「援協日本病院(日伯友好病院)」はこうして1985年5月26日に開院しました。
ただ、当時の日伯友好病院はまだ緒についたばかり。
レントゲン室や臨床検査室はあるもののベッドは20床しかありませんでした。
当時の目標は200床。
それに一流病院にするためにはスタッフも充実させなければいけませんでした。
そのため、ブラジルの大学生が日本に留学、国庫の援助で医学を勉強するチャンスが与えられることになったのです。
けれども、まだまだお金が足りません。
北島さんが1985年6月22日をチャリティーデーにしたのはこういった背景があったのです。
この1年半前にもブラジル公演の売上を全額病院建設費に充て勲章を受けていました。
病院の完成まではこれからも全面協力を惜しみませんよ。
と語っていた北島さん。
病院はそうして北島さんの協力もあり、1988年6月18日(ブラジル日本移民80周年記念日)に開院。
北島さんは記念の植樹を行いました。
病院の場所はサンパウロ市北部パルケ・ノーヴォ・ムンドにあり、近隣の低所得家庭の児童に対し、小児科と歯科の無料医療サービスを行っています。
また、1990年代に新病棟を増設。
増築資金を寄付した日本国際協力財団理事長・神内良一氏の名前を残すべく、新病棟は「パビリオン・R・神内」と命名されました。
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