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大原麗子と渡瀬恒彦の離婚理由は「嫁姑の確執」?!




 

1978年、バレンタインデーの2月14日、マスコミ各社に「大原麗子」さん(当時31歳)から声明文が届きました。
内容は、前日に渡瀬恒彦さん(当時33歳)と正式離婚したという報告でした。

一体何が原因で別れに至ってしまったのでしょうか。

名前:大原麗子(おおはられいこ)
本名:飯塚麗子(いいづかれいこ)
生年月日:1946年11月13日~2009年8月3日(享年62歳)
職業:女優
出生地:東京都文京区
学歴:北豊島高等学校卒業



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声明には次のようにつづられていました。

恒彦さんと私はけっして憎み合って別れたのではない。夫婦という絆は切れても私は恒彦さんを男性として人間として心から尊敬しています…

と。

15日、記者たちは大原さんがドラマのロケをしている北海道旭川市郊外の湧駒別温泉に向かいました。
旅館のロビーで取材に応じた大原さんは、

離婚を考えだしたのは去年夏頃から。今年1月になって彼から子どもを産むか、仕事をとるかと迫られた

と明かしました。

そして、

私はどうしても子どもをつくる方をとることができなかった

と続けたのです。

一方、渡瀬さんは同日、都内のテレビ局近くの喫茶店で記者に囲まれていました。

彼女は僕が女優として認めている数少ない一人。だから、仕事をやめろとは言えなかった。彼女をちゃんと包んでやれなかったのが原因です

と渡瀬さんの説明は大原さんと微妙に違ったのです。

記者が「浮気が原因では?」とたたみかけました。

実は共演者だった范文雀(はんぶんじゃく)さんとの親密交際が噂されていた時期があったからです。
しかし「それはまったくありません」と渡瀬さんは言下に否定しました。

2人が入籍したのは1973年9月…
どちらも仕事が忙しく、式を挙げることもできませんでした。
それから4年半後、離婚に至るわけですが、決定的な理由は今ひとつはっきりしなかったのです。

ただ当時、渡瀬さんの母との嫁姑の確執があったという話がありました。

1975年8月、大原さんは四肢に力が入らなくなるギラン・バレー症候群にかかり東大病院に入院…
当時、関西での仕事が多く、京都でマンション暮らしをしていた渡瀬さんは撮影の合間をぬって上京し、かいがいしく看病したのです。

半年後に退院する大原さんはすぐ仕事に復帰…
それが渡瀬さんの母親には不満だったのです。
仕事を休んで京都で一緒に暮らすべきだと公言していました。

母親からすれば、渡瀬さんの兄の渡哲也さん夫婦とどうしても比較してしまうのです。
青山学院大で渡さんの1年後輩だった夫人は子育てしながら、病気がちの夫を懸命に支えました。
仲むつまじい渡夫婦の姿を見ると、大原さんへの不満が募ってきてしまうのです。

大原さんと姑は東京・成城の自宅で一緒に暮らしていましたが、仲は悪くなる一方…
見かねた渡瀬さんは京都に一軒家を借りて母親を呼び寄せました。

冷却期間をおけば、修復できるかもしれないと淡い期待を抱いていましたが、そうした日は来なかったのです。

離婚から2年後の1980年6月、大原さんは森進一さんと再婚しましたが、4年後に離婚…
子どもが欲しい森さんと意見が合わなかったのです。

離婚会見で大原さんは「仕事は私の生きがいだから」と語りました。

その後は独身を通し2009年8月大原さんは脳内出血で亡くなります。
自宅で3日後に発見されるという孤独死でした。







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