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森進一と大原麗子…離婚の原因は何だったのか?!

目次




 

「襟裳岬」や「港町ブルース」、「おふくろさん」などの名曲で知られる、独特のハスキーボイスが特徴の歌手「森進一」さん。
そんな森さん(当時36歳)が女優の大原麗子さん(当時37歳)と離婚したのは、1984年のことでした。
果たして二人の間には何があったのでしょうか。

名前:森進一(もりしんいち)
本名:森内一寛(もりうちかずひろ)
生年月日:1947年11月18日(71歳)
職業:歌手、作曲家、社会福祉活動家
事務所:森音楽事務所
レーベル:ビクターエンタテインメント
出身:鹿児島県
学歴:鹿児島市立長田中学校

 

名前:大原麗子(おおはられいこ)
本名:飯塚麗子(いいづかれいこ)
生年月日:1946年11月13日~2009年8月3日(享年62歳)
職業:女優
出生地:東京都文京区
学歴:北豊島高等学校




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森進一と大原麗子…離婚会見で語ったこととは?

1984年6月18日午後1時、青山のビクタースタジオで行われた森進一さんの単独離婚記者会見には、100人を超す取材陣が殺到しました。
グレーのスーツ姿で登場した森さんは、離婚の理由をこのように語りました。

(協議離婚の)一番大きな原因はすれ違いです。僕は家庭的に恵まれなかったので、結婚する時に温かい家庭を望み、麗子には「仕事を辞めて欲しい」と言った。でも、「わかったわ」と答えた麗子は寂しそうな顔でした。僕はその時、可哀そうだと思って「支障のない程度に」と譲歩した。あの時、麗子の顔を見なければ良かった…

続けて森さんは、

麗子の寂しそうな顔を見てから、僕は段々と「辞めろ」とは言いづらくなった。でも、いつかは理想の家庭が作れると…ところが昨年(1983年)から彼女の仕事量がエスカレートして、「これでは望んでいる家庭も出来ない」と判断したんです。そして、6月3日、僕がアメリカ公演から帰国した時、麗子に「もっと自由が欲しい。家のことをするより台本を読んでいる方が楽しいの」と言われ、これ以上、僕が家庭のことを望むのは麗子に負担がかかると思い、こういう結果になりました。

と話したのです。

すでに会見の前日となる6月17日に、森さんが広島へ仕事に行って留守の間に、大原さんは荷物をまとめて渋谷区松濤(しょうとう)の家を出ていたこと、森さんが捺印した離婚届を大原さんに渡したことも明らかになりました。

一方の大原さんは、同じ日の午後4時15分から、六本木の「クラブハウス33」で記者会見しています。
紺色のワンピースに身を包んだ大原さんは、

私は家庭より仕事が生きがい、でも仕事が最高とは思っていません。そう思っていたら結婚なんかしません。一寛(かずひろ)さん(森さんの本名)からは、「仕事を辞めて欲しい」と言われましたが、私は辞めるつもりはありませんでした。私の我儘(わがまま)から、こういうことになったのです。私は我儘です。

このようにキッパリと自分に非があることを打ち明けた大原さん。
この1年ほど前から離婚の話し合いを持ったことも告白しました。

さらに、

でも、その言葉(離婚)は彼から言って欲しくなかった…

とも語ったのです。

二人が結婚したのは1980年6月25日。
1978年に大原さんが渡瀬恒彦さんと離婚し、傷心の大原さんを温かく励まし続けた森さんと付き合うことになりました。
当時、費用2億円という豪華な披露宴は大きな話題を呼び、人気歌手と人気女優の二人は、オシドリ夫婦と呼ばれてきたのです。

それだけにこの離婚劇は意外な印象を与えました。
当時、森さんとの再婚を前に大原さんはこのような話をしています。

結婚に自信はないですよ。やっぱり家事のことがね。もし「仕事を辞めて家にいろ」と言われたら、よく話し合って解決するしかないでしょうね。

離婚会見の1年前に、初めて森さんが離婚の言葉をロにした時、大原さんは「40才まで仕事をさせて欲しい」と言いました。

一寛さんに我慢を強いる結果になり、それが一寛さんを病気(自律神経失調症)にさせてしまいました。

と語る大原さん。

森さんはいつかは大原さんが仕事を辞めて家庭に入ってくれると信じていたのです。
しかし、現実は人気女優である大原さんは深夜帰宅が多く、森さんはほとんど家で大原さんの帰宅を待つ生活でした。

何度か喧嘩もしました。その度に私が黙ってしまいました。でも、森内(森さんの本名)家に入った以上、私としては出来る限りのことをしようとしました。一寛さんがどんなに朝早く出かけても、夜がどんなに遅くなっても、3つのことだけはやっていました。

と話す大原さん。

記者から「3つのこととは何なのか?」という質問に対し、

それは普通の奥さんだったらやってることで、お話しするほどのことではありません。

と大原さんが答えました。

実は二人の離婚に際し、関係者から「森さんは子供を欲しがっていたが、大原さんはそれを拒み続けていた」という話が出ていたのです。
しかし、この点に関して、「子供のいないのが原因ではない」、「関係ありません」と二人は否定しました。
異性問題についても同じく、二人とも「断じてありません」と語ったのです。




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森進一と大原麗子…離婚に際して関係者が語ったこと

当時、森進一さんと大原麗子さんの離婚に際し、関係者から様々な意見が出ていました。

例えば、森さんの父親代わりであった鹿児島在住の吉井義照さんはこのように語っています。

昨年(1983年)10月、彼が仕事で鹿児島に来た時に会ったんだが、「もう結婚は惰性ですよ。でも、どうしても子供が欲しい。できるものだったら(大原さんに)内緒で別の女性にでも子供を作りたいぐらい」と言っていた。前に家に遊びに行った時、森が「麗子、ご飯を作れ」と言ったら彼女は「仕事から帰ったばかりなのに」という答え。森は鹿児島県人、亭主関白でやりたかったのだろうがね。どうもそういうことで爆発したんじゃないかな。彼女も森に尽くしていたが、けっこう無理をしていたんじゃないかな。

また、大原さんの実家は東京都文京区千石の和菓子屋「田月堂老舗」です。
当時、大原さんの父親は体調を崩して地方に療養に出かけていましたが、母親のとし子さんからは、

今回の件は何も相談を受けていません。森さんとの結婚式以来会っていないんです。冷たいと思われるでしょうが、主人は渡瀬さんとの離婚に反対でした。森さんとの時も、同じ結果になるのではと危惧して反対したんです。そんなことがあって音信不通なんです。

というようなコメントも出ていたのです。

森さんの弟・正人(まさひと)さん(当時27歳)も、

ずいぶん長いつき合いで、男女の仲を超越したと言うか、一寛さんを友だちのように思ってました。

と話しています。

こうして芸能界のオシドリ夫婦と言われた二人は離婚…
その理由はあまり多く語られることはありませんでした。







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