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誰もがご存知、日本の女子柔道界最大のスターと言えば「谷亮子」さんの名が挙がるでしょう。
数々のメダルを獲得し、もはや彼女の実力は誰もが認めるものですが、そんな彼女にもこれまで様々なゴシップがありました。
世間を驚かせたデートや、突然の引退の裏には何があったのでしょうか。
名前:谷亮子(たにりょうこ)
旧姓:田村亮子(たむらりょうこ)
生年月日:1975年9月6日(43歳)
職業:柔道家、前参議院議員(1期)
出身:福岡県
学歴:日本体育大学大学院博士前期課程修了
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谷亮子…柔道人生と結婚まで
小学1年から柔道を始めた谷亮子さんが、その存在を広く世間に知らしめたのは、中学3年時に出場した1990年の福岡国際女子柔道選手権大会でした。
この大会で、谷さんは48キログラム以下級に出場すると、当時、世界のトップクラスでならしていた選手たちを次から次へと打ち負かし、大会最年少の15歳で優勝し、女子柔道界にニューヒロインが誕生したのです。
小柄ながらスピード感溢れる動きで対戦相手を圧倒する姿は、当時、人気を集めた浦沢直樹さんの柔道漫画「YAWARA!」の主人公・猪熊柔を彷彿とさせ、「ヤワラちゃん」の愛称で多くの人から親しまれるようになります。
谷さんの五輪ストーリーは、1992年のバルセロナ五輪からスタート。
2月のドイツ国際をオール一本勝ちで制した谷さんには、金メダルの期待が寄せられました。
そうして予選から順当に勝ち上がり、決勝に進出。
しかし、決勝ではフランスのセシル・ノバックさんに効果を2つ奪われ敗退してしまいます。
初めての五輪は、惜しくも銀メダルという結果に終わりました。
次のオリンピックでのリベンジを誓った谷さんは、そこから怒涛の勢いで連勝街道をばく進します。
福岡国際6連覇、世界選手権連覇の実績をひっさげ、無敗のまま1996年のアトランタ五輪に挑むことになりました。
初戦から順調に勝ち進んだ谷さんは、決勝で北朝鮮のケー・スンヒさんと対戦。
もはや絶対王者と呼ぶにふさわしい実力と実績を身につけた谷さんと、このときまだ16歳でダークホース的存在だったケーさんを比べれば、悲願の金メダルは確実に思えました。
しかし試合が始まると、谷さんが得意とする組み手争いで思うように主導権を握ることができません。
ケーさんが柔道着を、左前ではなく右前に着ていたことが原因でした。
慣れない組み手に戸惑う谷さんが、終盤払い腰をしかけにいったところを逆に小外刈りで切り返され効果を取られてしまいます。
そのうえ、指導まで取られたところで時間切れ…
谷さんは、またしても金メダルを逃してしまいました。
谷さんは失意に暮れていると思われましたが、その翌日、アトランタ市内で男性と連れ立ってショッピングをしている様子が写真週刊誌に激写されます。
谷さんが男性と手をつなぎ、肩を抱かれながら、笑顔を浮かべて歩く姿がしっかりと写し出されていました。
お相手は、自転車競技1000メートルタイムトライアルで銅メダルを獲得した十文字貴信さんです。
決勝で敗れ、気落ちしていた谷さんをなぐさめるべく、柔道選手と自転車選手が合同で企画した鍋パーティーで意気投合し、アトランタデートが実現しました。
十文字さんが、「さわやかなお付き合いです。(彼女とは)これからです」とコメントすれば、谷さんも、「手を握られたのは一瞬のスキ。油断していました」と答え、2人の関係は「さわやか交際」などと、もてはやされました。
しかし、このスキャンダルはふたを開けてみれば、なんでもなかったというオチ…
ツーショット写真も、直前まで一緒にいた先輩たちが突然一斉に消えてしまったところを撮られたもので、うがった見方をすれば、谷さん人気にあやかりたいという競輪関係者の話題づくりだった可能性すらあったのです。
十文字さんはアトランタ後、すぐに中学時代の同級生と結婚しており、谷さんと恋愛関係がなかったことを証明しています。
その後、「最高でも金、最低でも金」と断固たる決意で臨んだシドニー五輪では、準決勝のチャ・ヒョンヒャンさん(北朝鮮戦)でなかなかポイントを奪うことができず苦戦しますが、3-0の判定で勝利を収め、決勝に進出。
決勝のリュボフ・ブロレトワさんとは、開始からわずか38秒、内股で一本を奪い、3度目の正直で五輪の金メダルを獲得しました。
この時、谷さんは「ようやく初恋の人に出会えました」と喜びを表現しています。
オリンピックの金メダリストにのぼり詰めた谷さんの次なる目標は、未だ日本の女子選手が成し遂げていない五輪連覇でした。
その連覇のかかるアテネ五輪の前年、2003年にはプライベートでも金メダルを手に入れます。
それがプロ野球選手・谷佳知さんとの結婚です。
婚約指輪は約2700万円。
「憧れだった」というパリの教会で挙式し、テレビ中継が行われた総額約3億円の豪華披露宴には、長嶋茂雄さんを始めとする各界の著名人700人が出席しました。
ちなみに2人の馴れ初めはアトランタ五輪です。
当時、谷佳知さんはアマチュアとして野球の日本代表に選出されていました。
谷佳知さんの方がファンとして好意を持っていたようで、合宿所で田村亮子さんを見つけ、一緒に写真を撮ってもらったのがきっかけだと言います。
十文字さんとの報道の裏で、ひそかに恋愛の芽を吹かせていたのです。
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田村から谷へそして柔道家から参議院議員へ
こうして「田村」から「谷」に姓が変わり、人妻となった谷さんは、夫・佳知さんと共に夫婦揃ってアテネ五輪の代表に選出されました。
しかし、大会直前の合宿で左足負傷のアクシデントに見舞われます。
一時は出場も危ぶまれましたが、痛みをこらえて試合に臨んだ谷さん。
会場で夫が見守る中、立て続けに一本勝ちを決め、決勝に進出すると、フランスのフレデリク・ジョシネさんから大内刈りで技ありを奪って優勢勝ち。
見事、五輪連覇を成し遂げ、大会前に自らが発した「田村でも金、谷でも金」という言葉を現実のものにしました。
ただ、谷さんの柔道選手としてのピークは、ここまで…
アテネ五輪の翌年、谷さんは妊娠・出産を経験します。
女子選手の場合、出産を機に現役を引退するケースが少なくありませんが、谷さんは現役続行を選択しました。
復帰戦となった2007年4月の全日本選抜柔道体重別選手権大会では、出産のために休養を余儀なくされたブランクを乗り越え、決勝まで勝ち進むも、福見友子さんに出足払いで有効を取られて敗退してしまうのです。
そのため、2年に一度行われる同年9月の世界選手権代表には、前年の福岡国際でも優勝している福見さんが選出されるものと思われました。
しかし、全日本柔道連盟は過去の実績を考慮し、谷さんを代表に選出したのです。
世界選手権ではなかなか往時のように一本勝ちを奪うことができず苦戦が続きましたが、決勝でキューバのヤネト・ベルモイさんに優勢勝ちして、2大会ぶり7度目の優勝を果たしました。
そして、この結果が、北京五輪に大きく響いてきます。
2008年8月に開催される北京五輪代表を決め重要な判断材料となる4月の全日本選抜体重別選手権大会で谷さんは決勝に進出。
山岸絵美さんを相手に送足払いで効果を奪いリードしますが、巴投げと大外返しで有効を2つ取られ、前年に続いてまたも決勝で敗れてしまいました。
それでも北京五輪の代表に選ばれたのは、またも谷さん。
実績、特に前年の世界選手権での優勝が効いていました。
ただ、この時は前哨戦に勝った選手が代表に選ばれないという不条理な決定に対する抗議の声は少なくありませんでした。
抗議の声を抑える方法は、結果を出すことだけ…
「ママでも金」を御旗に掲げ、谷さんは5大会連続となる北京五輪に出場しました。
3試合をいずれも優勢勝ちで制し、迎えた準決勝はルーマニアのドゥミトルさんと対戦。
互いに技をかけることができないまま、試合は進行しました。
しかし、谷さんのみが指導を取られるという不可解なジャッジにより敗退。
金メダルへの道が閉ざされてしまったのです。
3位決定戦でロシアのリュドミラ・ボグダノワさんに勝ち、銅メダルは獲得したものの、代表選考に間違いがあったことを疑わざるを得ない結果となりました。
「中途半端に終わりたくない」と、ロンドン五輪に向け現役続行を宣言していましたが、翌2009年に第2子を出産。
再びオリンピックに向けてのトレーニングが始まるものかと思いきや、2010年、参議院議員選挙に民主党の比例代表公認候補として出馬することを表明し、国政への参加を決意したのです。
ロンドンで6回目のオリンピックを目指すと言っていた人物が、政治を語ってもタカが知れている…
そんな意見も出てはいましたが、比例名簿上位であったことと、政権交代の追い風に乗り、民主党・谷亮子議員が誕生します。
しかし、議員との二足のわらじで、ロンドンでの金メダルを狙うと息巻いていた谷さんですが、あまりの迷走ぶりに連盟も重い腰を上げました。
谷さんの強化指定ランクをナショナルから1段階下のシニアに降格させたのです。
これにより、五輪出場に不可欠なポイントを獲得するための大会出場が制限されることになり、事実上、代表争いから脱落しました。
そして2010年1月15日、ロンドン五輪への出場を目指さないことを表明し、谷さんは引退を発表します。
出場した5回のオリンピック全てでメダルを獲得、その実力は、誰もが認めるところでした。
しかし、その晩節は徐々に過去の栄光から遠のいているのです。
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