1984年3月31日…
東京は千代田区麹町にある食糧会館で、40人あまりの報道陣を前に「高田美和」さん(当時37歳)が行った「離婚促進会見」は、俗に“サド会見”と呼ばれて物議を醸しました。
名前:高田美和(たかだみわ)
本名:梶浦美知子(かじうらみちこ)
生年月日:1947年1月5日
職業:女優、歌手
所属:オフィス天童
出身:京都府京都市の日本の
学歴:日本大学鶴ヶ丘高等学校
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高田美和さんの夫は歌舞伎役者の片岡秀太郎さん(当時42歳)…
2月に高田さんが離婚届に署名押印して離婚を求めましたが、片岡さんが拒否したため、この会見を開くことになったのです。
高田さんは「(片岡は)冷淡な人」、「私が寝込んだ時も“仮病だ”とののしり、強引に仕事をさせた」、「仕事で私が襲われる場面を喜んだ」、「彼がこんなに裸の仕事ばかりさせるのはこの世に私がいるせいだと思い、自殺も考えた」大胆発言…
時にハンカチで涙をぬぐい、時に嗚咽をこらえ、訴訟もちらつかせながら離婚を迫ったのです。
後に高田さんは「実際のサド行為や暴力はなかったが、サディスティックな性格かもしれないと言ったのをスポーツ紙のタイトルに“秀太郎さんはサド”と書かれてしまった」と弁解しました。
それでも夫婦の秘め事にも関わるプライバシーの暴露に様々な臆測が乱れ飛んだのです。
この会見の2年前…
高田さんはにっかつロマンポルノ「軽井浪夫人」(1982年公開)で大胆な濡れ場を披露して、“性熟女優”とし人気を博していました。
しかも片岡さんが共演男優に対し、「美和の場合は、こう下からいった方が気分が出るよ」、「美和は前張りはつけないが、キミはどうする?」などと自ら濡れ場の“演技指導”をしていたことなども話題となっていたのです。
そのため、報道陣だけでなく世間一般もすっかりサド行為があったと思い込んでしまったのです。
高田は二枚目俳優、高田浩吉の愛娘として1962年「青葉城の鬼」で銀幕デビュー。清純派のヒロインとして、68年の退社まで大映に所属して活躍してた。
一方の片岡は名門、松嶋屋、13代片岡仁左衛門の次男として4歳で初舞台。関西歌舞伎界を代表する女形だった。
1973年10月、茶道家・千宗室氏の媒酌で結婚…
文字通りの箱入り娘であった高田さんは、当初は芸能界きってのおしどり夫婦としてもマスコミに度々登場しましたが、1983年5月頃から不仲説が報じられなったのです。
不仲の原因は片岡さんの束縛といわれています…
高田さんを自分と同じ事務所に移籍させ、仕事はすべて片岡さんが決めた上に、現場にも同行していました。
片岡さん自身が高田さんの裸を撮影したり、舞台上の姿に魅せられ、衣装のままで帰宅するよう命じたりしたこともあったといいます。
ただ、高田さんも愛人の存在が噂されるなど、夫婦関係はすっかり冷え切っていました。
結局、衝撃的な会見が功を奏し1984年4月23日…
永山武臣・松竹副社長(当時)が立ち会い、父・仁左衛門氏が同席のもとで片岡さんが離婚届に署名押印しています。
高田さんはこれを受けて25日、これまた異例の「離婚お礼会見」を開き、「みなさんが大きく報道してくださったおかげ」と晴れやかに語りました。
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