画家や版画家、彫刻家や作家、さらには映画監督などのとしても活躍した芸術家の「池田満寿夫」さん。
そして、声楽家でエッセイスト、天才バイオリニストとも称された「佐藤陽子」さん。
二人は戸籍上、正式な夫婦ではありませんでしたが、芸能界でもおしどり夫婦として話題になっていました。
果たして、二人の馴れ初めとはどのようなものだったのでしょうか。
名前:池田満寿夫(いけだますお)
生年月日:1934年2月23日~1997年3月8日(享年63歳)
職業:画家、版画家、挿絵画家、彫刻家、陶芸家、作家、映画監督
出身:長野県長野市
学歴:長野北高等学校
名前:佐藤陽子(さとうようこ)
生年月日:1949年10月14日(70歳)
職業:ヴァイオリニスト、声楽家、エッセイスト
出身:福島県福島市
学歴:モスクワ音楽院
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国際的版画家で、芥川賞作家、映画監督など様々な肩書を持つ池田満寿夫さん(当時45歳)と、国際的バイオリニストの佐藤陽子さん(当時29歳)の結婚が話題にあがったのは1979年のことでした。
もし、二人が結婚すれば池田さんは3回目、佐藤さんは2回目の結婚となっていたはずです。
と言うのも、実は佐藤さんの方は1979年2月に前夫(外交官だった岡本行夫さん)との協議離婚が成立していましたが、池田さんにはまだ法律上の妻リランさん(中国系アメリカ人)がおり、離婚していなかったからです。
1979年8月2日、池田さんはユニチカのカレンダー制作のため東京からローマへ向かいました。
予定は約2週間。
佐藤さんもレギュラー出演中の「ヒントでピント」(テレビ朝日)の撮影が月末までないのを見計らって、パリ経由でローマ入りしたのです。
カレンダーのテーマは「少女から女への変身」で、ローマ、ミラノ、ベネチアなどで撮影が行われましたが、これは2人の婚前旅行でもあったのです。
そうして、8月下旬に陽子さんはローマから帰国。
池田さんはニューヨーク郊外のイースト・ハンプトンのアトリエーに帰って、リラン夫人との離婚を詰める予定でした。
佐藤さんの母親も当時、このように話しています。
挙式など具体的なことは、まず池田さんがご自分の方をクリアになさってからの話です。一部に婚約したとか、ローマの教会で式を挙げるのではないかと書かれましたが、そんなことは絶対ありません。しかし、2人とも世間の常識にはこだわらない芸術家なので、婚約というような形式にとらわれず、結婚する可能能性もあるでしょう。私はそれでもいいと思っています。池田さんは飾り気のない、気さくな人柄で、ああいう小説(エーゲ海に捧ぐ)をお書きになりましたが、とても真面目な人なんですよ。私どもの家にも何度かお見えになって、陽子の相手には申し分のない方です。2人とも大人ですし、結婚は本人達の意志に任せてあります。今度の旅行は、陽子のテレビ番組の撮りが今月の29日までなので地田さんのお仕事に合わせたのではないでしょうか。
当時、2人の仲が急進展していることはわかったいました。
実はすでに池田さんと佐藤さんが共同で仕事をする体勢を固め、映画製作や演奏会活動の窓口になる「M&Y事務所」(満寿夫と陽子の頭文字をつけた有限会社)を7月にスタートさせたいたからです。
以前より、池田さんとリラン夫人には不仲説が伝えられていましたが、問題は離婚がいつ成立するかということでした。
池田さんは、
別れる時には、自分が持っている物を全部妻にあげちゃう主義。
とも語っており、スッパリと離婚が成立すると予想されていたのです。
ただ、一方で1979年5月のカンヌ映画祭にそろって出席した池田さんとリラン夫人の姿を見た日本の映画関係者は、
とても離婚寸前の夫婦とは思えなかった話題の人、池田さんが大勢の人に囲まれているとの対照的に、リランさんは物静かなたたずまいだったが、いかにも知的な美人で、女子学生のような雰囲気のにこやかな笑顔が印象に残っている。
という声もあったのです。
そもそも池田さんと佐藤さんの馴れ初めは1977年の秋、山形県で催された文化講演会で知り合ったことがきっかけでした。
池田さんは佐藤さんのどこに惹かれたのかをインタビューでこう語っています。
僕は彼女が非常に好きだし、ものすごく才能のある人だと思っている。友達としても大変魅力的な女性だ。大体、僕は自分の仕事を持っていない女性とは、何を話していいのかわからない。愛とはコミュニケーションで、相手をわかろうという気持ちと同時に、自分のこともわかってもらいたいんです。
また、2人の共通の友人もこう証言しています。
去年の暮れ、私は彼女のロから「池田さんと来年秋には結婚したい」という言葉を聞いた。今秋挙式が伝えられて、やっぱりと思ったんです。2人が真剣に愛し合ってることを知っていましたからね。その後、今年2月に陽子さんは離婚しましたが、これまでのインタビューで「池田さんとは結婚しません」と答えたのは、離婚早々で世間体を考えてのことでしょう。
また、キングレコードで佐藤さんのレコーディングを4年間担当した佐藤秀夫さんはこう語っていました。
私は7月26日に仕事の打ち合せで2人に会いましたが、その後でヨーロッパ旅行の相談があったと思います。ただ、計画はかなり前からのものでしょう。その話は私も4月頃聞き、彼女が「8月は日本にいない」と言ってましたから。池田さんにはカレンダーの仕事があり、彼女にも2、3小さな仕事があるようですが、 大半はバカンスになるはずです。2人の気持ちは決して遊びではなく、大人の行動だったと私は理解しています。
1978年の秋、佐藤さんはテレビの仕事でスペインに行った帰り、 ローマにいた池田さんと会っています。
すでに前夫とは別居中でしたが、協議離婚が成立する前に池田さんとの結婚を決意していたとも考えられます。
そうして池田さんが自作の小説を映画化した「エーゲ海に捧ぐ」の音楽を佐藤さんに依頼した時から、2人の愛はゆるぎないものになっていました。
僕は本質的に結婚制度には反対なんだが、あれは女房や子供に対する保証だからね。結婚という形式は否定したいが、それをやると相手に怒られちゃう。
と語っていた池田さん。
19歳で入籍した女性が離婚に応じなかったことやリラン夫人の存在もあり、佐藤さんは池田さんが亡くなる1997年までずっと内縁の妻という関係でした。
その後の佐藤さんは、池田さんが亡くなる前後は活動を自粛していましたが、近年ではレクチャーやコンサート、慈善演奏会やワークショップなど青少年の指導に力を注いでいます。
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