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テレビドラマ「水戸黄門」や「北の国から」、映画「快傑黒頭巾」や「丹下左膳」に出演。
ひょうひょうした味わい深い演技と、トーク番組でのとぼけた問答でお茶の間の人気者だった「大友柳太朗」さん。
そんな大友さんが自宅マンションから飛び降り自殺を図ったのは、1985年9月27日のことでした。
果たして、大友さんに何があったのでしょうか。
名前:大友柳太朗(おおともりゅうたろう)
本名:中富正三
生年月日:1912年6月5日~1985年9月27日(享年73歳)
職業:俳優
出生地:広島県広島市中区
学歴:松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)
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大友柳太朗…自殺までの経緯
大友柳太朗さんが東京・南青山のマンションの屋上から飛び降りたのは、1985年9月27日の午前9時15分頃のことでした。
第一発見者でこのマンションの1階に住む主婦は、
ドスーンという大きな音がしました。植木の職人さんでも転落したのかと思い、植え込み横に行ったところ「ウーン」といううめき声がして、壁に首をもたげて両手を広げ、足を揃えた男の人が見えました。
と、その時のことを語っています。
所轄の赤坂暑の調べでは、屋上に大友さんのサンダルが揃(そろ)えてあり、1.2メートルのフェンスを乗り越えていることから自殺と判断されました。
また、自宅の机の上には小さな紙に、
中島さんこめんなさい。おかあちゃんゆっくり休んでください。
と書かれた遺書も見つかっています。
実は大友さんは亡くなる2~3日前に、大友さんが自室玄関ドアを足で蹴って暴れる姿を目撃した住人もおり、
普段はとてもおとなしい方だったので驚きました。
との証言もありました。
また、数日前にはマンション前の路上に仁王立ちして「ここで俺は死ぬんだ!」と叫び、車が渋滞して警察を呼ぶ騒ぎになったこともあったのです。
さらに、亡くなる直前にも自殺しようとしたことも明らかになりました。
朝8時半頃、大友さんが管理人室に来て、「地下にあるトランクルームを開けてください」とおっしゃったんです。その時、様子がおかしいと思った。
と語ったのはマンションの管理人。
おかしいと感じたのは、大友さんが片手にべルトを持っていたからでした。
しかも、管理人がトランクルームを開けると、大友さんは中に入り、中から鍵をかけてしまったのです。
驚いた管理人は5階の大友さんの部屋に行き、澄子夫人(当時67歳)に、「ご主人の様子がおかしい」と告げ、地下に戻って合鍵で開けたところ、大友さんはベルトを手にしたまま立ちつくしていたと言います。
澄子夫人が大友さんを自室に連れ帰り、近くに住む音楽家で一人息子・雅至(まさゆき)さん(当時37歳)に、電話で「お父さんの様子がおかしい、すぐ家に来て」と連絡中に、大友さんは再び自室を出て屋上にあがり、フェンスから飛び降りたのでした。
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大友柳太朗…自殺の理由は何だったのか?!
大友柳太朗さんは1930年に新国劇に入り、辰巳柳太郎さんの1番弟子になりました。
その後、1937年に映画界に進出し、1943年に澄子さんと結婚しています。
1950年には「大友柳太郎」から「柳太朗」に改名し、東映時代劇の看板スターとなりました。
テレビに活躍の場を移したのが昭和50年代の中頃。
特定の事務所には属さず、澄子夫人がマネージャーを勤めてきました。
ショックで倒れた澄子夫人に代わって、息子・雅至さんが父親の死についてこう語っています。
仕事とか家庭がうまくいってなかったということは全くありません。仕事が生きがいの人で燃えつきてしまったように思います。ものすこく仕事にのめり込むわりに気の小さい所があり、トーク番組に出演する前日などは「何を聞かれるのだろうか?」と気に病み、自分で質問を作って準備するような人でした。若い頃から思った通りに仕事ができない時など「死にたい」と口走ることがありました。最近は特に極度の不眠症で睡眠楽を常用してました。一種のノイローゼだったのかもしれません。親父はずっと面倒かけ続けた母にすまないといつも思っていたようです。
大友さんは事件前も、かかりつけの医者以外に、あちこちのツテを頼っては睡眠薬を求め歩き、そのことを知った澄子夫人が驚き、それを隠し「薬の量を減らして」と大友さんに訴えていました。
遺書にあった「ゆっくり休んでください」は、マネージャーとして、また妻として42年間、自分のためにだけ尽くしてくれた夫人へのお礼の言葉だったのでしょう。
9月28日夜6時から、浅草・東京本願寺で通夜が、翌29日正午から告別式が行われました。
その席には多くの芸能人の姿もあったのです。
芸名の名付け親でもある師匠・辰已柳太郎さん(当時80歳)は、
「バカヤロー!」と言いたい気持ちです。7月7日に私の80歳の祝いに来てくれたのが最後。面白い奴で落語家よりも面白い話をして帰って行ったのに…
昔は不器用で立ち回りも下手だったが、最近いい味が出て来て、「いい役者になった」と褒めたら、喜んでいたのだが…
と肩を落としました。
1983年に「外科医 城戸修平」(TBS系)で大友さんと共演した中村雅俊さんは亡くなる前日、新宿で大友さんに会っていました。
その時、何を話しかけても反応がなくボケーッとしてらした。それで心配してたら、こんなことになって…
と語っています。
大友さんは前日に遺作となった映画「タンポポ」の最後の出演場面を新宿で撮影していました。
この映画を監督した伊丹十三さんは、
役はラーメン作りの名人。素晴らしい演技でした。それにしても一緒に仕事をしながら何の力にもなれず、危険な状態にいらしたのに察知できず情けない…
と悔しさをにじませたのです。
NHK「しあわせの国」で共演した田中裕子さんは、
いつもニコニコして少年みたいな人でした。挫折と情熱を併せ持っている人でしたから少年のように逝かれたのでしょう。
と語り、NHK「なっちゃんの写真館」で共演していた星野知子さんは、
私が演技で悩んでいたら「今からそんなに悩むことはない。僕も下手だったがここまで来たんだよ」と励ましてくださって…
とコメントしました。
竹下景子さん、平田清さん、タモリさんらも大友さんの完全主義と明るい人柄について語りました。
完全主義者だった大友さんは、「ハーフポテトな俺たち」(日本テレビ系)を3話だけ撮って旅立っています。
遺書に「中島さんごめんなさい」とあるのは、番組プロデューサーへのお詫びだったのです。
人々に明るい一面だけを見せ、最後まで投者として生きた大友さんの最期でした。
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