ふくよかな体形でドラマで人気だった女優の「京塚昌子」さん。
1960年代から1970年代にかけて「肝っ玉かあさん」や「ありがとう」などの名母親役として活躍していましたが、1994年9月23日午後7時過ぎ、東京・田町の病院の一室で京塚昌子さんは静かに息を引き取りました。
享年64歳…
直接の死因は心不全ですが、長らく脳梗塞で入院生活を送っていました。
最期まで付き添った妹によると眠るような安らかな死に顔だったといいます。
名前:京塚昌子(きょうづかまさこ)
本名:平塚マサ子(ひらつかまさこ)
生年月日:1930年3月16日~1994年9月23日(享年64歳)
職業:女優
出身:東京都
学歴:佐野高等女学校(現・栃木県立佐野女子高等学校)卒業
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病に倒れたのは1983年9月…
公演先の愛媛県松山市の宿で朝起きたら手足が動かず、口も回らない状態になり、そのまま市内の病院に搬送されて、20日間入院しました。
その後は東京の病院に転じて療養し、一見、健康そのものの印象でしたが、1971年に糖尿病と診断されていたのです。
脳梗塞は糖尿病由来と考えられました。
女優の傍ら小料理屋や天ぷら屋を経営して食道楽としても酒豪としても知られ、倒れる直前にも「ちょっと太りすぎたから減量しなきゃ体に悪いわね」と共演者の池内淳子さんに漏らしていたのです。
東京の病院3ヵ月で退院しましたが、自宅に戻ってからは1日1400キロカロリーに食事を制限されました。
85キロもあった体重も最後は60キロを切るまでに…
根っからの楽天家で、そのうち元に戻るものと思っていて、リハビリはサボりがちだったといいますが、食事制限はきっちり守っていました。
1984年から1985年にかけては後遺症に耐えながら一時的に復帰…
しかし、やはり症状が悪化し、1986年4月には「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言し、山梨県甲府市の病院に入院しました。
その後は静岡、長野と各地の病院を転々として療養生活を送り、事実上、芸能界引退状態となったのです。
2回目の入院当初は再度の復帰を目指し、リハビリに励んでいましたが、徐々に体力が衰え、晩年は意識にも影響が出て、来客に反応を示さないこともあったといいます。
生涯独身と伝えられていましたが、 死後、30代の1964年頃から3年間内縁関係の「夫」がいたことが芸能マスコミによって報じられました。
相手は新橋の美貌で有名だったゲイポーイ…
遊びではなく熱愛だったといいいます。
すれ違いから3年後に別れることになったのですが、「夫」とは別れた後も酒をよく酌み交わす仲だったといいます。
20代後半のころ、京塚さんはやせるためのホルモン治療を受け、その副作用で月経が止まり、その後ずっと更年期状態だったといいます。
性別には、こだわらない「人間」同士の心のつながりがそこにはあったのかもしれません。
葬儀は9月28日に営ほれ、役柄通り陽気でやさしい京塚さんを慕っていた400人が見送りました。
長山藍子さんら彼女の「子供」演じた俳優らも顔を揃えたのです。
「肝っ玉かあさん」などのプロデューサーを務め公私ともに親しかった石井ふく子さんは葬儀委員長を務め、「ママ(京塚)は年下なのに本当に私の母さんのような存在だった」と人柄を偲んだのでした。
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