NHK大河ドラマ「平清盛」(2012年)の題字を担当するなど、書家として活躍している「金澤翔子」さん。
書道を始めたきっかけは、同じく書家で母親の金澤泰子さんの影響で、翔子さんは5歳の頃から書道を始めました。
そんな翔子さんの魂を揺さぶるような書は、多くの人の心を打ったのです。
今回は書家・金澤翔子さんの父親や母親に関するお話です。
名前:金澤翔子(かなざわしょうこ)
生年月日:1985年6月12日
職業:書家
号:小蘭
出身:東京都目黒区
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新生児期に敗血症(菌血症や他の感染症に対する重篤な全身性の反応)にかかり、後にダウン症と診断された金澤翔子さん。
「知能がなく一生歩けないかもしれない」と医師から告げられ、母親の金澤泰子さんはすっかり希望を失ってしまいました。
当初、何度も翔子さんと一緒に死のうと考えたことも一度や二度ではありません。
しかし、そんな泰子さんに「ダウン症なんて関係ない。精一杯愛してやろう」と支えてくれたのが、泰子さんの夫であり、翔子さんの父親でもある金澤裕(ひろし)さんでした。
翔子さんが生まれてすぐ、父親の裕さんは医師に呼ばれて「敗血症で交換輸血が必要です。もう一つダウン症がある。だから交換輸血をしてまで助けるのはどうだろう」と言われていました。
クリスチャンだった裕さんは、そのようなことは受け入れられず、「僕は神の挑戦を受けるよ」と誓い、翔子さんを育てる決意をしたのです。
裕さんは妻の泰子さんより5つ年下でしたが、家業を継ぐ実業家で、当時からいくつもの会社を経営していました。
また、人物としても風格があり、器の大きい裕さんを泰子さんは頼りにしていたと言います。
こうしてこの世に生を受けた翔子さん。
ダウン症と診断された娘を裕さんの可愛がり、書家であった泰子さんが書道を5歳から教えてくれたことで、幼い翔子さんは271文字の般若心経を書けるようになりました。
この翔子さんが10歳の時に書いた般若心経は、「涙の般若心経」と呼ばれ、最も人気のある作品の一つになったのです。
翔子さんは書いた字を見た父親の裕さんが、自分を誉めてくれることが何よりの励みになっていました。
しかし翔子さんが14歳の時、裕さんが突如として帰らぬ人となってしまいます。
死因は心臓発作(心筋梗塞)で、裕さんはまだ52歳という若さでした。
遺言ではありませんが、裕さんは妻の泰子さんとある約束していました。
裕さんは「翔子はダウン症だけど、こんなに立派な字が書けるのだから、20歳になったら、翔子の書をお披露目しよう」と話していたのです。
その願いを叶えるため、またこんなことは生涯一度のことだからと、母親の泰子さんは2005年に翔子さんの個展「翔子 書の世界」を銀座で開いたのです。
すると、そんな翔子さんの個展に全国から2000人を超える人が見に来てくれました。
中には翔子の作品を見て涙を流す人もいたそうです。
こうして翔子さんの魂を揺さぶるような書がどんどんと脚光を浴びるようになります。
2006年10月に建長寺に「慈悲」を、2009年11月には建仁寺に「風神雷神」を奉納しました。
また、2012年1月には福島県いわき市に金澤翔子美術館を開設し、翔子さんが館長に就任しています。
さらに、2015年3月20日にはニューヨーク国際連合本部では、日本代表として翔子さんがスピーチをしています。
この時、5歳から書道を始め、何度も間違え何度も泣きながら271文字の般若心経を書いたことを語りました。
その際に父親・裕さんについて、翔子さんはこのように語っているのです。
(私の父親は)14歳の時に急な病気で亡くなりました。私の胸の中にいます。「うまく書けますように」とお父様に祈って書いています。
そうして最後に母親の泰子さんに向けてこのように語りました。
お母様へ。お母様のお腹にいる時に出たい出たいとお腹を蹴ったの覚えていますか。痛かったかな。赤ちゃんの私を産んでくれてありがとう。お母様が大好きなので、お母様のところに生まれてきました。お母様は私にうまく書かせたいなと思ってたからうまく書けるようになりました。お料理もお掃除もお洗濯も見て自分で考えて覚えました。お母様は「できるかな」って見守ってくれました。今では何でもできるようになりました。
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