生まれは明治35年…
戦前から女優として活躍し、「ハレー彗星を2度見た」とも発言していた「浦辺粂子」さん。
80歳を過ぎても現役を続け、バラエティー番組で人気でしたが、1989年10月にガスコンロの火が浴衣に移り、大火傷を負って87年の生涯を閉じています。
名前:浦辺粂子(うらべくめこ)
本名:木村くめ
生年月日:1902年10月5日~1989年10月26日(享年87歳)
職業:女優
出生地:静岡県賀茂郡下田町(現在の静岡県下田市)
学歴:沼津女学校(中退)
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浦辺さんは26歳の時に京都の資産家と結婚し、1年余りで離婚しています。
以後「女優に家庭は要らない」、「私はわがままで気を使うのは嫌い」と独身を貫いていました。
一人暮らしを続けた浦辺さんの元気の秘訣は、離婚の原因ともなったギャンブル…
競輪はフリーパス、競艇は特別パスを持っていました。
麻雀好きでも知られ、「仲間がだんだん死んじゃうからメンツが足りなくて大変なの」とも語っていたほどです。
元気に暮らす浦辺さんにアクシデントが起きたのは1989年10月25日朝8時前…
お湯を沸かそうとヤカンをガスコンロにかけたのですが、その際、浴衣の右のたもとに引火したのです。
助けを呼ぼうと浦辺さんは火だるまになりながら、玄関に向かいました。
「熱い、熱い、助けて」というかすれた声を聞きつけた隣家の住人が見たのは、浴衣が焼け焦げて裸同然で黒い門扉にしがみつく浦部さんでした。
その時は「大丈夫よ、大丈夫よ」、「救急車は嫌だから呼ばないで」と答えたと言います。
隣人はすぐさま119番通報…
腰のあたりでくすぶっていた火は洗面器の水で消し止め、東京・西新宿の東京医大病院に搬送されました。
救急車の中ではぐったりしながらも呼びかけに応答…
病院に着いた時も「早く帰りたいよ」と訴えるほど意識ははっきりしていたのです。
しかし、全身の70%に火傷を負う重傷…
無菌室に移されて4人の医師が治療に当たりましたが、87歳の高齢もあり、翌26日午前0時30分、多臓器不全で帰らぬ人となったのです。
実は、浦辺さんは火傷事故の3年前の1986年にも、自宅の階段から足を踏み外して転落する事故を起こしていました。
この時は仕事がオフだったため、マネージャーが連絡を取っていなかったのです。
このため発見が遅れ、意識不明のまま3日間、誰にも気づきませんでした。
連絡が取れないのを心配した知人が隣家の住人に連絡…
家の中で倒れている浦辺さんを発見したのです。
当時、階段下から風呂場や台所まで広がった血は、すでに固まっていたほどだったという。
頭を20針縫い、2ヵ月近く入院生活を送りました。
以降、足腰が弱っていたといわれ、火傷は周囲が心配していた中でのアクシデントだったのです。
明治35年生まれの浦辺さんは戦前から活躍し、60年以上の女優生活の中で300本以上の映画に出演しました。
それだけ女優への意識は高く、特に芸名である「浦辺粂子」に強い愛着と誇りを持っていたのです。
紫綬褒章の授賞式において本名で呼ばれた際にひどく立腹し、「この賞は浦辺粂子がもらったものです」と怒りを露わに挨拶したと言います。
浦辺さんの死を聞いた清川虹子さんは「あれだけみんなを楽しませてくれた人が、あんな死に方をしなければいけないかと思うと、とても辛い…周囲は心配していたんですが、一人の方がいい、自分は大丈夫と言っていたので」と悲しみをにじませました。
浅香光代さんも「周りは老人ホームに入るように勧めたけど、私は死ぬまでここにいたいと言ってね」とコメントしています。
多くの人に惜しまれた「おばあちゃんアイドル」の死でした。
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