1968年公開の黒四ダム建設を題材にした石原プロと三船プ口製作の大作映画「黒部の太陽」…
この映画は“世紀の難工事”と言われた黒部ダム建設の苦闘やトンネル工事の様子を描いたものでした。
当時、映画界にあった「五社協定(大手映画会社5社である松竹、東宝、大映、新東宝、東映が1953年9月10日に調印した専属監督・俳優らに関する協定)の壁に阻(はばま)れ製作は難航を極めました。
しかも、撮影中にはセットが壊れて、主演の石原裕次郎さんが全身に大ケガを負うアクシデントが起きたのです。
このように「黒部の太陽」は、石原裕次郎さんや三船敏郎さんに数々の苦難が迫った映画でもありました。
名前:石原裕次郎(いしはらゆうじろう)
生年月日:1934年12月28日~1987年7月17日(享年52歳)
職業:俳優、声優、歌手、実業家
出生:兵庫県神戸市須磨区
学歴:慶應義塾大学法学部政治学科(中退)
備考:石原潔(父)、石原光子(母)、石原慎太郎(兄)
名前:三船敏郎(みふねとしろう)
生年月日:1920年4月1日~1997年12月24日(享年77歳)
職業:俳優、映画監督、映画プロデューサー
出生地:膠州湾租借地(現・中国山東省青島市)
学歴:大連中学校
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1967年9月30日、愛知県の建設会社の工場には「黒部の太陽」のトンネル工事のシーン撮影のために幅7メートル、高さ5メートル、長さ240メートルにも及ぶ巨大なセットが組まれていました。
この日はトンネルが破砕帯にぶつかり、岩石の間から大量の湧き水が噴出し、作業員を襲うシーンの撮影が行われようとしていたのです。
午後7時50分ごろ、熊井啓監督のスタートの合図がかかり、直径8メートル、高さ13メートルのタンクに用意された420トンの水がセットに流されました。
その直後に、ドンという轟音が響き、大量の水の圧力でコンクリートのトンネルの壁が崩れてしまったのです。
水は一気に流れ、セット内に組まれていた60本の丸太も一緒に流れてしまいました。
そのため、演技を始めていた建設会社の技術者役の石原裕次郎さんと電力会社現場責任役の三船敏郎さんも流されてしまったのです。
照明も消え、セット内はまったくの闇…
熊井監督も流され、「何人が死者が出たかもれない」と思ったと言います。
スター2人を捜す「裕ちゃん」、「三船さん」という声が飛び交い、しばらくして照明が復活…
三船さんが見つかって無事でしたが、裕次郎さんは発見されたものの意識はありませんでした。
裕次郎さんは流れるうちに撮影用のコードに絡まり、そのまま水と丸太に襲われていたのです。
救急車で病院に運ばれましたが、両足に打撲傷、左足には長さ20センチの裂傷を負って血が流れていました。
さらに右手の親指は骨折もしていたのです。
また、倒れた姿勢で流される時、手で必死で踏ん張ったせいか両手の指が敷石にこすられて、指紋が全部なくなってしまいました。
意識を取り戻した病床の裕次郎さんも、さすがに「この映画はもうダメかな」と呟いたといいます。
当然、カメラも流されて壊れていました。
しかし、フィルムを取り出して現像してみると、水が噴出し裕次郎さんらが流されるところがリアルに撮れてたのです。
この映像がむしろ迫力があるということで、映画に使われることになりました。
撮影も裕次郎さんの回復を待ち、20日以上遅れながら続行されることとなります。
この映画の製作は1964年に三船さん、裕次郎さんの2人によって発表された。
当時の映画界に大手5社により、監督・スターは各社専属とするという「五社協定」が続いていました。
東宝出身の三船さん、日活出身の裕次郎さんという2大スターの取り合わせはこの五社協定の枠組みを危うくするということで、各社の協力を得られず、公開のメドが立たないままの製作開始だったのです。
そのため監督を務めた熊井さんも日活から解雇…
さらに、映画会社専属俳優は貸し出されず、宇野重吉さん率いる民芸など新劇界の協力を得て、キャスティングを乗り切りました。
災難続きでしたが、最終的にロードショーは東宝、全国一般封切りは日活という形で話がつき、結果的に興行収入約16億円を記録する大ヒット…
1968年キネマ旬報ベストテン4位・文部省の推薦映画に選ばれました。
また、当時小学生だった人の中には、この映画を小学校の校外学習で見たという人も多いと言います。
その後もテレビドラマや舞台劇、漫画や書籍など様々な分野で、石原裕次郎さんと三船敏郎さんが手がけた「黒部の太陽」が世に広まっていくこととなりました。
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