「うそ」や「理由(わけ)」など数々のヒット曲を世に送り出した歌手の「中条きよし」さん。
1981年には時代劇必殺シリーズ「新・必殺仕事人」に、闇の殺し屋集団・仕事人チームの一人としてレギュラー出演し、俳優としても活躍するようになりました。
さて、そんな中条さんですが、スキャンダルが絶えない男としても有名なのです。
というのも、結婚生活がなかなか続かず、18年間に3回も離婚を経験していたからです。
そこで今回は、中条さんが1987年に語った結婚生活や離婚の原因に関して語った内容についてご紹介したいと思います。
名前:中条きよし(なかじょうきよし)
本名:下村清(しもむらきよし)
生年月日:1946年3月4日(74歳)
職業:俳優、歌手
所属:エクセリング
出身:岐阜県岐阜市
学歴:岐阜東高等学校商業科
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離婚の話は自然に出ました。食事している時に彼女がその話を始めたので「よく考えた?」と聞いたら、「はい」と頷くんです。それで「お前がそこまで言うのは、きっとよく考えて決めたことなんだろうから仕方がない。そうしようか」ということになったんです。書面上の手続きが終わったところで、悔いが残らないように彼女とはじっくり話し合いました。だから、別れたからといって嫌な思いはありませんでした。
1987年1月10日、博子夫人(当時36歳)との離婚届を東京・渋谷区役所に提出し、3回目の離婚を完了した中条きよしさん(当時40歳)は淡々と話しました。
中条さんが博子さんと出会ったのは1969年。
中条さんがまだ“高波晃(たかなみあきら)”と名乗っていた無名時代です。
同じ事務所・白金プロダクションに所属する博子さんはまだ歌手の卵。
“高山ひろ子”として彼女がデビューしたのはそれから5年後の1974年7月、「他人町」によってのデビューとなりました。
その後、5枚のシングルを出しています。
そして中条さんと博子さんの間に恋が芽ばえたのはずっと後、1977年の秋頃からでした。
翌1978年5月、二人は花登筺さん・星由里子さん夫妻の媒酌で結婚します。
しかし、まもなく夫婦の間にギクシャクした空気が漂い始めます。
彼女はとにかく仕事が好きなんです。僕が仕事から帰っても、女房が外に出ているのではやはりいい気はしない。
と語った中条さん。
結婚後の博子さんの仕事とは、実家の高山一族が経営する各種の事業、例えば衣料品の「東亜」(東京・渋谷)やビル管理会社「高山ランド」などに関係していたことを指します。
その後、彼女は「高山ランド」の取締役となりますが、一時は専務を務めていたこともあったそうです。
このすれ違い夫婦の溝を決定的に広げたのが、1981年春から中条さんが出演するようになった「必殺シリーズ」(テレビ朝日系)でした。
この撮影で京都暮らしが多くなったのです。
必殺シリーズで京都へ行くことが多くなったんですが、一週間ベタで取られてたので、そのうち東京へ帰らなくなってもお互いに気にならなくなって来たんです。たまに1日休みが入ると、彼女の方から「そっちでゴルフでもやったら」と言うようになりました。すれ違い、すれ違いというけども、京都へ行く以前からずっとすれ違いだったんです。お互い仕事を持っていたから。「たまに会うから新鮮でしょう」と言われるけど、逆だね。(奥さんが)ずっと家にいる人だったらそうでもないんだろうけど、返ってギクシャクするし、他人ですよ。性格的にも合わない部分がありました。それは彼女もそうでした。彼女は「中条きよしは好きだけど、下村清(中条さんの本名)は好きじゃない」というんです。
下村清とは、家庭での夫としての中条さんのことを指すので、夫としては耐えられなかったということにもなるのでしょう。
家庭内の対話は必要以上にはなかった。こういうことを話そう、ああいうことを話そうと思っても、彼女が全部押さえちゃう。しかし、僕自身あまり怒りませんでした。怒っちゃうと二人の生活がそれで終わってしまう、ということもあるでしょうから。離婚のことを話し始めたのは昨日今日のことじゃない。何年も前から下地があって、お互いに抑えてきたものをここで結論を出そうということになって、離婚になったわけです。
二人の不和の原因の一つに中条さんと先妻M子さんとの間にできたKくん(当時13歳)のことがあったのではないか、という憶測もありました。
中条さんはKくんと時たま会ったり、同居のことを考えたこともあったと言います。
しかしKくのことについては、
そのことで夫婦の間にトラブルは一切ありませんでした。同居のこととか、子供と会うことを特に話したことはないけど、もし話したとしてもそれは関係ないです。
と語っています。
もう一つ離婚の原因になったものとして囁かれているものがありました。
それは京都・祇園の一流クラブ・蘭のママ・西夏絵さんとの噂です。
別に彼女は愛人とかというのではありません。確かにお付き合いはしてるけど、そういうものではない。向こうには子供さんがいるし、変な形で出ちゃうと向こうにも迷惑がかかりますので…とにかく、子供と女性は今度の離婚とは一切関係ありません。2~3年前というよりも、もっと前から離婚については話していたんです。もしかしたらもっと早く別れていたかもしれないんです。
とこのように話しました。
中条さんの初婚は1969年1月。
お相手は函館出身のK子さんで、ダンスホールで知り合いました。
3年後の1972年8月に破局を迎え離婚しましたが、この時にK子さんはその理由をこう話していました。
老いた実家の母や学校に通っている妹のために仕送りしなけりゃならない。きよしさんは「構わない」と言ってくれるけど、申しわけなくて…
しかし、この離婚の裏には別の女性がいました。
1972年7月に2度目の結婚をしたM子さんです。
結婚がこの時であるのに入籍が翌1973年4月になったのは、前夫人・K子さんとの離婚が1972年8月になってようやく成立したという事情によるものでした。
そして1973年8月、Kくんが誕生します。
中条さんが歌手として脚光を浴びるようになったのはそれからまもなくのこと。
1974年1月25日、「うそ」でデビューした中条さんは、この曲の大ヒットで一躍スター歌手の道を歩み始めます。
この時、中条さんは独身というふれこみでした。
M子さんは、Kくん誕生直前の1973年7月末に、
私のことに構わず好きな道に進んでください。私はしばらく実家(会津若松市)へ帰って子供と暮らします。
といって身を隠していたのです。
しかし、中条さんに妻子がいることがやがて世間に知られることとなります。
すると、M子さんとKくんは会津若松から上京。
フジテレビ系「ラブラブショー」で晴れて夫婦として披露をしたのです。
しかし、この時すでにM子さんは中条さんと別れる決意を固めていました。
ようやく念願叶って公然と夫と一緒に暮らせるようになったというのに、なぜだったのでしょうか。
東京・世田谷で一つ屋根の下で暮らすようになった姑との確執などと伝えられていましたが、真因はそこにはなかったようです。
実は中条さんとOSK日本歌劇団の女優・Yとのスキャンダルが囁かれたのはその頃。
1975年4月、中条さんとM子さんは離婚しました。
この離婚劇は中条さんの芸能人生に大きな打撃を与えるものと思われました。
元々、中条さんは「全日本歌謡選手権」(日本テレビ系)で10週勝ち抜いて注目され、「うそ」でデビューした時はいずれ五木ひろしさんを凌ぐ逸材とまで将来を嘱望(しょくぼう)された歌手です。
「うそ」、「理由(わけ)」のヒットはその予想を裏づけてあまりあるかに見えました。
それが突如、妻子の存在が明るみに出たばかりではなく、離婚に及んで、苦労かけた妻子に薄情な男というイメージが一気に中条さんの人気に水をかけたからです。
凋落(ちょうらく)した歌手・中条さんを役者として再生させたのが花登筺さんでした。
博子さんと愛し合うようになったのもその頃です。
その転向を経済的に支えたのが裕福な彼女の実家だったと言われています。
しかし、その3回目の結婚ドラマも終わりを告げました。
3回の離婚を振り返って共通するのは、常に妻が身を引いていくパターン。
そして、そこにはいつも別の女性の影がありました。
女は壊れやすい時計です。大事に扱わないとすぐに狂い始めてしまいます。
これは中条さんがデビューしてまもない頃に口にした言葉です。
どの時計も大事に扱われたかどうなのか…
その後、中条さんは1989年に4度の結婚をしており、なんとそのお相手はかつて離婚の原因になったものとして囁かれていた京都・祇園の一流クラブ「蘭」のママ・西夏絵さんです。
その西さんが中条さんの現在の奥様でもあるのです。
4度目の結婚でようやく人生の伴侶と巡り会えた中条さん。
今度の時計は是非とも大事にして頂きたいですね。
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