紅白出場回数29回。
代表曲「好きになった人」や「北の宿から」、「大阪しぐれ」などで知られる演歌歌手の「都はるみ」さん。
そんな都はるみさんは、人気絶頂だった36歳の時に「普通のおばさんになりたい」と突然の歌手引退を宣言しています。
この引退宣言は当時、特番を組まれるなど一種の社会現象となりました。
果たして、この都はるみさんの突然の引退の裏には何があったのでしょうか。
名前:都はるみ(みやこはるみ)
本名:北村春美(きたむらはるみ)
生年月日:1948年2月22日(72歳)
職業:演歌歌手
所属:サンミュージック
出身:京都府京都市
学歴:洛陽女子高等学校(中退)
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1984年3月5日に突然の引退を発表した都はるみさん(当時36歳)。
当時、自身の引退に際し、このような話をしてました。
20周年を区切リにしようとは以前から考えていました。特に昭和55年(1980年)に「大阪しぐれ」で、欲しいと思っていた「レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞」を受けた時、(20年で)辞めようと思い始めました。
続けてこう語ります。
昨年(1983年)の10月頃、家族との間で私の引退の話が出始めました。私としては20周年の最初の行事である新宿コマ劇場公演(都はるみ特別公演、1984年2月24日~3月20日)の前に、発表をと考えていました。でもレコード会社や事務所に慰留され、やっと今日発表することになったんです。
都はるみさんの引退ともなれば、当時、誰もが都はるみさんの恋人と噂されていたコロムビアの担当ディレクター・中村一好さん(当時36歳)との結婚が頭をよぎりました。
2人の不倫の恋が明らかになったのは、1983年3月のこと。
それも「彼が離婚したら結婚を考えます」と都はるみさん自身が告白したことがきっかけでした。
これに対して、中村一好さんは、
「ついて行きます。待っています」と言ってくれた彼女には、ただあリがたいという気持ち。根気よく話し合い(離婚問題を)クリアにしたい。
と語っていたのです。
そして、1984年2月2日には、都はるみさんの育ての親でもある作曲家・市川昭介(いちかわしょうすけ)さん宅を二人が訪ね、都はるみさんは市川さんと引退後の相談もしていました。
しかし、中村さんが当時、山口県宇部市に二人の子供と共に生活している妻と、離婚問題を調停中のためか、「引退と中村さんは関係あリません」と、中村さんの結婚の憶測を否定していました。
記者から「引退を中村さんに相談したのか?」という質問を受けると、
分かってもらうまで時間がかかりましたが「引退は本人が決めること。僕が色々言っても仕方ない」とのことでした。
と打ち明けています。
「引退して中村さんと独立するのでは?」という問いには、
一度引退したら、二度と出られない世界だと知っています。まして独立なんて卑怯なことはできません。私は引退で二度と戻れない環境へ追い込んで、北村春美(都はるみさんの本名)として生きて行こうと考えたんです。この20年間に二人のはるみは生き方が違ってきました。春美としては、はるみの華が咲いているうちに終わらせて別の生き方をしたいんです。
「引退後の空白が怖くないか?」という質問に対しては、
下積みもなく20年間やってきましたし、引退後の空白も怖くありません。
「歌はあなたにとって何だったのか?」という質問を受けると、
この20年間、一番大切なものでした。
「最後の歌はいつになるのか?」と問われて、
(1984年)10月3日に東京で、7日に大阪てリサイタルがあります。出させていただけるなら年末の紅白が歌い納めになると思います。
「引退後はどうするのか?」との質問には、
ボケーッとしたいですね。それから車の免許を取り、食べることが好きなので、お料理がもっともっと上手になリたい。
と語ったのでした。
当時、シングルレコード88枚、総売リ上げシングル約2千万枚。
20年間、演歌の第一線で活躍していた都はるみさん。
最後にキッパリと、
私が(中村さんに)勝手について行くのは自由だし、この生き方を将来も変えるつもリはありません。
と言い放ったのでした。
そうして宣言通り、都はるみさんは第35回NHK紅白歌合戦出場を最後に一旦引退。
しかし、1987年には音楽プロデューサーとして活動を再開し、1986年6月24日に亡くなった美空ひばりさんの訃報をきっかけに、歌手復帰を決心します。
この年の第40回NHK紅白歌合戦に出場し、変わらぬ歌声を披露しました。
その後、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞(2005年)、紫綬褒章を受章(2010年)するなど順風満帆でしたが、2016年の1年間単独コンサート活動を休業することを発表し、そこから現在まであまり目立った活動はしていません。
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