プロ野球界において巨人の第2期黄金時代を築いた「水原茂」さん。
そんな水原さんが亡くなったのは、1982年3月26日のことでした。
当時、水原さんの葬儀には弟子・長嶋茂雄さんや張本勲さんの顔もありました。
名前:水原茂(みずはらしげる)
別名:水原円裕(のぶしげ)
生年月日:1909年1月19日~1982年3月26日(享年73歳)
職業:元プロ野球選手、監督、野球解説者
出身:香川県高松市
学歴:慶應義塾大学(旧制)
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現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ)で活躍、引退後は様々なチームの監督を歴任し、特に巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セントラル・パシフィック両リーグでチームを日本一に導きました。
そんな水原茂さんが亡くなったのは、1982年3月26日のこと…
肝硬変を含む肝不全のため、東京女子医大病院で亡くなりました。
3月28日の密葬には、水原さんが球界復帰を熱心に説いていた長島茂雄さんも参列します。
この時、長嶋さんは師・水原さんとの思い出をこう語っています。
昨日(通夜)伺いたかったんですが、韓国プロ野球のオープニングがあり、昨夜帰国して駆けつけたんです。ほんとにいいオヤジでした。今、最後のお別れをして来ましたが、いい顔をしてましてね。
この年の1月、水原さんは長島さんと張本勲両さんと共に韓国を訪れ、若いプロ野球球選手たちに向けた講演をしていました。
その時は大変元気だったんですけど、帰って来て急に悪化し、入院されたんです。
長島さんが水原さんと出会ったのは、1958年(昭和33年)の入団時。
立教大学を出て右も左もわからない長嶋さんに、野球人生の歩み方や生き方を丁寧に指導してくれた恩人でした。
そんな恩人・水原さんの入院を聞き、長島さんが東京女子医大病院に見舞ったのは1982年2月22日。
フロリダに行く前に伺ったんです。あの日は大変元気でしてね。「おい、エレベーターまで送るよ」なんてね。内心、喜んでおったんですが、後で聞いてみますと、あの日が一番具合が良かったらしいんです。
帰りしなに、フロリダから帰った数日後(3月27日)の韓国のオープニングの話になって、「開幕試合には元気でまた行こうな、お前も体に気をつけるんだぞ」なんて逆に励まされ、それが最後になってしまって…
と長嶋さんはコメントしました。
しかし、長嶋さんは水原さんからは多くの財産を受け継いだとも言います。
勇猛・果敢なプレーで燃焼し、守りじゃなく攻めの野球人なれと長嶋さんは水原さんから言われていました。
監督としては、思うようにいかない場合であっても、ミスをいかに少なく、大事に至らず小事で食い止めるか…
そういう面での指導を受けたと言います。
また、巨人を追われた長島さんに、球界復帰を強く勧めたのも水原さんでした。
病院でも「今年も充電期間らしいが、大リーグの方で色々勉強したら、早く復帰しろよ」と言われていたのです。
1977年には野球殿堂入りを果たし、葬儀は、1947年に腸チフスで現役中に急逝し背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫さんに次ぐ、史上2人目の読売巨人軍の球団葬として行われました。
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