ドリフでの呼び名は「ハゲ」や「ハゲ注」…
ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍したのが「荒井注」さんです。
そんな荒井注さんは1974年3月にドリフターズを脱退しているのですが、その理由は一体どのようなものだったのでしょうか?
名前:荒井注(あらいちゅう)
本名:荒井安雄(あらいやすお)
生年月日:1928年7月30日~2000年2月9日(享年71歳)
職業:俳優、タレント、コメディアン
出身:東京都
学歴:二松學舍大学文学部国文学科
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1974年3月30日、渋谷公会堂ではいつもの土曜日と同じように「8時だョ!全員集合」の生収録が行われていました。
会場を埋め尽くす子供たちの歓声も普段と変わりません…
ただ一つ違うのは、荒井注(当時45歳)さんにとってザ・ドリフターズとしての最後の舞台だったということです。
同月11日、ドリフは記者会見を開き、荒井さんの休業を発表していました。
休業といってもカムバックの予定はまったくなく、実質的な脱退だったのです。
「ディス・イズ・ア・ペン」や「なんだ、バカヤロウ!」のギャグで人気を誇っていた荒井さんがリーダーのいかりや長介さんに、「辞めたい」と申し入れたのは前年の6月…
その2カ月前に「全員集合」は最高視聴率50.5%を叩き出していました。
荒井さんがいかりやさんに誘われてドリフに参加したのは、東京五輪のあった1964年秋…
当初はキャバレー回りばかりでメンバー5人で、月25万円という収入だったといいます。
そんな苦労を乗り越え、やっとトップの座に上り詰めた途端の脱退表明は誰もがいぶかったのです。
いかりやさんに慰留されていったんは保留したものの、荒井さんの意思は変わりませんでした。
そこでいかりやさんは、ドリフのバンドボーイをしていた志村けんさんに白羽の矢を立てたのです。
1974年初めから試験的に「全員集合」に志村さんを出演させ、なんとかいけそうという感触を得て荒井さんの脱退が認められたのでした。
それにしても、荒井さんはなぜドリフの絶頂期に辞めようとしたのでしょうか?
この点に関しては、自分より3歳下のいかりやさんのワンマンぶりが気に入らなかったとか…
ギャラの配分に不満があった…
などといった憶測が流れました。
しかし、実は荒井さんは本当に疲れ切っていたのです。
40代半ばの身としては、15歳も歳下の加藤茶さんらと一緒に毎週、舞台の上で跳びはねるのが辛くなっていたのです。
それほど欲がある人ではなく、この辺でいいやという気持ちになったのだそうです。
ドリフを辞めた荒井さんは、夢だった釣り三昧の生活に入りました。
二松学舎大学時代の学友たちの家を回り、全国各地の海や川で一日中、釣り糸を垂らしたのです。
しかし、のんびりした日々は長くは続きませんでした。
脱退から半年もたたない8月、荒井さんにドラマの出演依頼が舞い込んだのです。
10月中旬からスタートする「時間ですよ・昭和元年」…
役どころは森光子さんの夫役でした。
プロデューサーの久世光彦さんが荒井さんのとぼけたキャラクターを気に入って口説き落としたのです。
「辞める時、復帰は考えていないと語っていただけに、ドリフのメンバーが約束違反だと怒っている」…
との報道もされましたが、事実は異なり、出演に際して荒井さんが真っ先に相談したのはいかりやさんでした。
いかりやさんから「ぜひ出るべきだ」と背中を押されたのです。
その後もドラマで活躍した荒井さんは2000年2月9日、自宅で入浴中に急逝…
71歳のときでした。
以前から患っていた肝不全が原因でした。
「飲む場所はあんたが決めといてくれ。じゃあ、いずれ」…
と弔辞を述べたいかりやさんも、その4年後に後を追うように亡くなりました。
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