不祥事を起こしながらも、多くのファンから愛された「勝新太郎」さん…
そんな勝さんに日本映画界を揺るがす大事件が起きたのは1979年7月のことでした。
黒沢明監督(当時69歳)がメガホンを取る製作費12億5000万円の戦国大作「影武者」で、主役に抜擢された勝さん(当時47歳)が突然、主役を降板したのです。
この降板劇の背景には一体何があったのでしょうか?
名前:勝新太郎(かつしんたろう)
本名:奥村利夫(おくむらとしお)
生年月日:1931年11月29日~1997年6月21日(享年65歳)
職業:俳優、歌手、脚本家、映画監督
出生地:東京市深川区(現・東京都江東区)
学歴:旧制法政中学校(現・法政大学中学高等学校)中退
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初めて黒沢作品に出演する勝さんは武田信玄とその影武者の2役を演じるはずだったのですが、リハーサル2日目の18日に早くも黒沢監督と衝突してしまい…
その後、撮影現場に戻ることは二度とありませんでした。
原因は勝さんが「現場でビデオを回したい」と言い出したのが発端だったのです。
いつも自分の演技をビデオに収めて研究している勝さんは黒沢監督に直談判…
その申し出に黒沢監督は強い口調で「断る」と言った後、「ボクが見ているから必要ないでしょう」と続けたのです。
「あっちが世界のクロサワなら、オレは天下の勝新だ!」と不満を露わにした勝さんが黒沢監督の目を射るように見ると、黒沢監督も負けずに睨み返し、「気に入らないのか!」と吐き捨てました。
その言葉にカッとなった勝さんは、後ろも振り返らずスタジオを出ていってしまったのです。
勝さんは衣装部屋に戻ると衣装を脱ぎ捨て、カツラもむしり取り、外に止めてあった自身のワゴンカーに立てこもりました。
プロデューサーが車内に入り、説得に当たったのですが、勝さんは「帰る」の一点張り…
事情を聴いて、さすがにこれではまずいと思ったのか、黒沢監督も勝さんのいる車に乗り込みました。
黒沢監督の顔を見ると勝さんは「こんな気分では芝居はできない」と言いました。
だいぶ落ち着き、自分の方から折れようという気持ちに傾いていたのですが、黒沢監督が来たからといって急に軟化するわけにもいきませんでした。
ところが、勝さんの言葉を聞くと黒沢監督は冷徹に「それならやめてもらうしかないな」と言い放ちます…
車を降りていこうとする黒沢監督に、勝さんは立ち上がり、殴りかかろうとしました。
ここは小柄なプロデューサーが必死になって勝さんを羽交い締めにして、なんとか押し止めたといいます。
実は、この時点ではまだ降板が決定的だったわけではありませんでした。
黒沢監督は勝さんが謝れば許す気で、勝さんもこんな低次元のケンカで降りるのはバカらしいと考えていたのです。
しかし翌19日朝、スポーツ紙が事件を詳しく報じたことで関係修復の機会は完全に失われてしまいます。
勝さんに惚れ込んで起用を決めて絵コンテを何十枚も描き、影武者のイメージも出来上がっていましたが、表沙汰になった以上、勝さんを許すわけにはいかなくなってしまいました。
その日の午後6時、黒沢監督は記者会見を開き、勝さんの降板を発表…
その最中に黒沢監督のマネジャーが仲代達矢さんに電話し、勝さんの代役を頼みました。
一方、同日午後8時から会見を開いた勝さんは記者から「未練はないのか?」と問われると言葉に詰まり、30秒近くも沈黙しました。
仲代さん主演の「影武者」は1980年に公開され、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞…
当時、邦画としては過去最高の配収を記録しました。
勝さんの逃した獲物はあまりに大きかったと言えるでしょう。
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